一連の記事で行っている実験のまとめはこちらのページ、生活実験:トレーニングを参照ください。
ざっくりまとめると忙しい中で一日30分と週1回のウェイトトレーニング、食事制限で体脂肪を落とせるのか?という実験をやっています。
2017/6/10
体重:68.0kg
体脂肪率:14.2%
基礎代謝量:1609kcal
基礎代謝量:1609kcal
※大学時代、ゼミでコースとは全く関係のない「やさしさの精神病理」という本を読まされた。
ちょうど昭和50年代を境に、やさしさの定義というものが変わったということについて触れたものだったと記憶している。
もう20年以上前の話だし細かな内容は全く覚えていないのだが、おおまかに言うと「やさしい」という感覚が、例えばズボンのチャックが空いているとか鼻毛が出ている時に、あえて指摘しない方が「やさしい」と感じられ、指摘するのは直接的な干渉となって「やさしくない」と感じられるようになっているということだったと記憶している。
わかりやすい例として2例程上げさせてもらったが、当時の俺からすると「別にどちらでもよい」ことだった。ズボンのチャックが空いていたとしても「モノ」が出ているわけではないし(出ていたら確実に捕まる)、鼻毛が出てるからと言って死ぬわけではないからだ。
しかし、最近になってこの本について深く考えさせられることがあった。
ここまでの事象について上に紹介した本が触れていたかは記憶が定かではないが、この手の「やさしさ」の定義になれた人間は極端に「人と対峙する」ことを嫌うらしいということである。おそらく程度の違いはあるだろうが、例えばその人に対して嫌なことで明らかに倫理的に間違ってはいないとか多少の議論の余地がある問題が発生したとしよう。
その人はそのことについて「それは自分が嫌である」ということが言えないため、負の感情を抱えることになる。
つまりここでその「やさしい人」は、自分が嫌な事象について、その嫌だと思うことをする人間に対して直接対峙ができないというジレンマと同時に負の感情を抱いているものと思われる。
で、タチが悪いのは、その負の感情を嫌だと思うことをした人間に対して別のところで発散して自分の精神バランスを保とうとするのである。
例えば、その人の弱点や普遍的に悪いと思えるような癖について、絶対に言い返せないところから全力の憎しみを込めて指摘するのである。
この「やさしい」人にとっては、それをしなければならなくなった、つまり精神的なバランスを保つために仕方のない行為を取らざるを得なくなった「嫌なこと」をした人間に対する行為であるため、プラスマイナスは「そのやさしい人の中でだけは」成立していることになり、おそらく特に悪いことをしたという意識はないだろうと思う。
それはその人にとってはバランスを取るためだけの行為であり、それだけの行為をさせるに至らせた人間に対しての当然の罰だからである。
ここに「常識でわかるだろう」とか「空気を感じろ」だのという行き過ぎると不可解なだけの感情論まで付随させてこの理解不能な単なる精神攻撃を正当化させるため、この「やさしい」人の自己正当性は「この人にとってのみは」揺るがしがたい事実となっているようである。
さて、この攻撃を受ける側からしたらどうであろうか?
まず、人間同士なので他の人にとって不快な行為を悪気なく行うことは大いにあり得る話である。その点について、「自分は不愉快だ」とはっきり言ってもらえれば、妥協点を模索するなどの建設的な話もできるだろうが、「やさしい人」からするとそれができないため、「やさしい人」が不愉快になっていることは気づかれないケースが多い。
そして、気づかれてないが故に、「やさしい人」からの精神バランスを保つための攻撃は「単なる悪意の塊」として受け取られる。
ここにすれ違いによる不幸が存在する。
「やさしい人」からすると、この行為は負の感情をオフセットするある種の精神的なバランスを保つ正当な行為であるが、やられた側からすると「単なる悪意からくる攻撃」に過ぎないからだ。
しかも、この「やさしい人」が行う発言や嫌がらせは、普遍的に言い返せない類の攻撃であることが多い。非常にタチが悪い。
さて、ここまでこの「やさしい人」が行う悲しい行為の連鎖でしかない攻撃を受け、始めは戸惑ったものの以上のように分析したまではいいのだが、だからと言ってこの攻撃を受け続けるか?と言われるとまず俺はそのような行為を黙って許容するほど「やさしい人」ではない。
まして、「良い人というのは多くの場合その人の取って都合のいい人」という意味だと思っている俺のような人間からしてみれば、ひどく自己中心的な「やさしさ」に過ぎないように思うのだ。
考えてみてほしい。事の発端はその「やさしい人」が他人と対峙する勇気を持ち合わせていないがためだけに全力の憎しみのこもった攻撃を受けなければならないのである。はっきり言って悪意しか伝わってこない。
仮にその理由がわかったとして、はっきりと「こういう行為が嫌だ」と言われない限り、それと思われる行為全てを止めなければならず、「やさしい人」にとっては都合が良い結末を得られるだろうが、まるっきり妥協点も見つからない一方通行のコミュニケーションに終始してしまうからである。
ここまで不快感を前面に出して書き連ねてきたが、このような自己中心的な対応を取られた場合に俺が取る行動は非常に単純である。
全ての交渉を単純化し、感情の交わる余地を与えないことである。この手の「やさしい人」にとって、沈黙は苦痛以外の何物でもない。空白は疑惑しか産まないからである。
彼が以上のような行為を延々と続けるなら、この対応も長続きしないかもしれない。改善が見られない場合は男性でここまで「病理と呼ばれるやさしさ」に憑りつかれた人間も稀有なので精神的に分解して分析してみようと思う。
まあ、今日酒を飲む言い訳に過ぎないのだが。
ちょうど昭和50年代を境に、やさしさの定義というものが変わったということについて触れたものだったと記憶している。
もう20年以上前の話だし細かな内容は全く覚えていないのだが、おおまかに言うと「やさしい」という感覚が、例えばズボンのチャックが空いているとか鼻毛が出ている時に、あえて指摘しない方が「やさしい」と感じられ、指摘するのは直接的な干渉となって「やさしくない」と感じられるようになっているということだったと記憶している。
わかりやすい例として2例程上げさせてもらったが、当時の俺からすると「別にどちらでもよい」ことだった。ズボンのチャックが空いていたとしても「モノ」が出ているわけではないし(出ていたら確実に捕まる)、鼻毛が出てるからと言って死ぬわけではないからだ。
しかし、最近になってこの本について深く考えさせられることがあった。
ここまでの事象について上に紹介した本が触れていたかは記憶が定かではないが、この手の「やさしさ」の定義になれた人間は極端に「人と対峙する」ことを嫌うらしいということである。おそらく程度の違いはあるだろうが、例えばその人に対して嫌なことで明らかに倫理的に間違ってはいないとか多少の議論の余地がある問題が発生したとしよう。
その人はそのことについて「それは自分が嫌である」ということが言えないため、負の感情を抱えることになる。
つまりここでその「やさしい人」は、自分が嫌な事象について、その嫌だと思うことをする人間に対して直接対峙ができないというジレンマと同時に負の感情を抱いているものと思われる。
で、タチが悪いのは、その負の感情を嫌だと思うことをした人間に対して別のところで発散して自分の精神バランスを保とうとするのである。
例えば、その人の弱点や普遍的に悪いと思えるような癖について、絶対に言い返せないところから全力の憎しみを込めて指摘するのである。
この「やさしい」人にとっては、それをしなければならなくなった、つまり精神的なバランスを保つために仕方のない行為を取らざるを得なくなった「嫌なこと」をした人間に対する行為であるため、プラスマイナスは「そのやさしい人の中でだけは」成立していることになり、おそらく特に悪いことをしたという意識はないだろうと思う。
それはその人にとってはバランスを取るためだけの行為であり、それだけの行為をさせるに至らせた人間に対しての当然の罰だからである。
ここに「常識でわかるだろう」とか「空気を感じろ」だのという行き過ぎると不可解なだけの感情論まで付随させてこの理解不能な単なる精神攻撃を正当化させるため、この「やさしい」人の自己正当性は「この人にとってのみは」揺るがしがたい事実となっているようである。
さて、この攻撃を受ける側からしたらどうであろうか?
まず、人間同士なので他の人にとって不快な行為を悪気なく行うことは大いにあり得る話である。その点について、「自分は不愉快だ」とはっきり言ってもらえれば、妥協点を模索するなどの建設的な話もできるだろうが、「やさしい人」からするとそれができないため、「やさしい人」が不愉快になっていることは気づかれないケースが多い。
そして、気づかれてないが故に、「やさしい人」からの精神バランスを保つための攻撃は「単なる悪意の塊」として受け取られる。
ここにすれ違いによる不幸が存在する。
「やさしい人」からすると、この行為は負の感情をオフセットするある種の精神的なバランスを保つ正当な行為であるが、やられた側からすると「単なる悪意からくる攻撃」に過ぎないからだ。
しかも、この「やさしい人」が行う発言や嫌がらせは、普遍的に言い返せない類の攻撃であることが多い。非常にタチが悪い。
さて、ここまでこの「やさしい人」が行う悲しい行為の連鎖でしかない攻撃を受け、始めは戸惑ったものの以上のように分析したまではいいのだが、だからと言ってこの攻撃を受け続けるか?と言われるとまず俺はそのような行為を黙って許容するほど「やさしい人」ではない。
まして、「良い人というのは多くの場合その人の取って都合のいい人」という意味だと思っている俺のような人間からしてみれば、ひどく自己中心的な「やさしさ」に過ぎないように思うのだ。
考えてみてほしい。事の発端はその「やさしい人」が他人と対峙する勇気を持ち合わせていないがためだけに全力の憎しみのこもった攻撃を受けなければならないのである。はっきり言って悪意しか伝わってこない。
仮にその理由がわかったとして、はっきりと「こういう行為が嫌だ」と言われない限り、それと思われる行為全てを止めなければならず、「やさしい人」にとっては都合が良い結末を得られるだろうが、まるっきり妥協点も見つからない一方通行のコミュニケーションに終始してしまうからである。
ここまで不快感を前面に出して書き連ねてきたが、このような自己中心的な対応を取られた場合に俺が取る行動は非常に単純である。
全ての交渉を単純化し、感情の交わる余地を与えないことである。この手の「やさしい人」にとって、沈黙は苦痛以外の何物でもない。空白は疑惑しか産まないからである。
彼が以上のような行為を延々と続けるなら、この対応も長続きしないかもしれない。改善が見られない場合は男性でここまで「病理と呼ばれるやさしさ」に憑りつかれた人間も稀有なので精神的に分解して分析してみようと思う。
まあ、今日酒を飲む言い訳に過ぎないのだが。
この中の「やさしい」は「しんせつ」ってことですか?
返信削除むずかしいw
この場合の「やさしさ」は他人に対しての「遠慮」であると同時に、自分としての「自己防衛」なのではないかと思います。あることを指摘したり、自分の主張をしなければ他人と「対峙」する必要はないという意味になるのでしょうか。
削除私の父は全力で嫌われ者を買って出ることで私を育ててくれたと思っているので、この手のやさしさは私の中には存在できないようです。
私の場合指摘しないのは単に「めんどくさい」という理由なので、私は心底「やさしくない」人になりますねw
やさしさにも、いろいろありますね。(≡・x・≡)
削除そうですね。
削除人それぞれ、自分の思うやさしさがあるんだと思いますね。