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今日実家から東京に戻ってきた。・・・ので、タイトルを帰省中から後日譚に変えてみた。
今日は人に会いたいと思っていたが予定が合わず、朝飯を食ってから何も食わずに帰ってきたので酒を飲んでいる。運命というものが本当にあるのなら、その日その日に起きることぐらいで大筋が変わることもなかろう。帰ってきて体重を測ったところそこまで太っていなかったので少し安心している。疲れやら何やら色々溜まっているので明日は色々な整理をして7月までに備えようと考えている。
下の写真は4月29日に撮ったものだ。前日の続きで畑までの道のりを草を刈っていく。
2代目のじいちゃんは実際に俺が大人になるまで生きていた。「○○っ子」という言葉を俺に当てはめるなら、俺はじいちゃんっ子だ。ばあちゃんっ子が多い中なぜか?というと、俺の婆さんは俺の母親だけには異様に優しかったが、孫には異常に厳しい・・・というか子どもが嫌いだったらしく、ある程度大きくなるまでいつも怒られていたからだ。しかも婆さんは底引き網漁船団の棟梁の家に生まれ、長男が大きくなるまで櫓かき(ボートのオールと言えばわかりやすいだろうか)という長男が行うべき仕事をさせられていた人だ。実の孫に「だから子どもは嫌いだ」といつも言ってしまうぐらい厳しいというか理不尽な人だった。
(写真解説:上の写真はよく見ると右にカーブしていて、右に曲がった角から撮ったのが下の写真である。ここからは現在も唯一、近辺では米を作っている田んぼがあり、その田んぼの下を道が通っている。ここまでが大体80mぐらい?でここから畑まで大体同じぐらいである。)
ちなみに婆さんは俺の高校の卒業式の日にあの世に行った。総合してみるととても優しい、女性的な面を持った人だったように思う。口が異常に悪かったが、今になって思い返すと躾をしてくれているつもりだったのだと思う。
話が逸れた、爺さんの話だった。家は親父含めた3人兄弟だったので、いとこが7人おり(うち2人はかなり遅くに生まれたが)夏になると5人をいつも船に乗せて雑魚釣りに連れて行ってくれていた。俺が12歳ぐらいになった時にはウニ採り・ウニ割り要員として手伝うことになるのだが、子どもだけを預けられてもいつもニコニコ笑って子どもの相手をしてくれていた。
(写真解説:田んぼの横の道の写真。結構草が生えている。写真の真ん中に見えているえぐれているところが道の右側である。)
家のじいちゃんは酒呑みではあったが、朝と昼に一杯、夜に三杯と決まった毎日を刻むような人だった。ひい爺さんのように島中の道と言う道で酔いつぶれて寝てしまうような人ではなかったのは第二次大戦中に軍人をしていたからだろうか。
情報兵の伍長をしていたとじいちゃんの口から聞いている。本気で酔っぱらうと軍歌を歌うのが常だった。夜にはいつも酔っ払いながら将棋の相手をしてくれていた。
昼には釣れた雑魚を船の上で器用に小さなまな板で捌いて刺身を作り、船の船底に隠していた焼酎と温かい麦茶で一杯するのが楽しみのようだった。その辺にある板に乗せた刺身に醤油をかけて食べるおにぎりは格別にうまかったのを今でも覚えている。
戦争の話はあまりしたく無いようだったが、いつも婆さんがいる前で大戦で行った中国でプロポーズして振られた話をしていた。当時の状況を考えると慰安婦だった人にプロポーズしたのだろうと思うのだが、差別とかせずに国際結婚しかけてしまう爺ちゃんはかなりファンキーなジジイだった。というか、素朴さが行き過ぎていたのだろうと思う。
(写真解説:草を刈った道。昔あぜ道だったところは茅が生えやすく、しかもところどころ直径10cmぐらいの木が生えているところを母親が開拓したのだそうである。改めてみると緑のモザイクにしか見えないが、これでも道である。)
俺がある程度の歳、12歳ぐらいになると7月の大潮のタイミングから爺ちゃんチに隔離され、ウニ採りを手伝わされるのが毎年の恒例だった。これは俺が高校を卒業して大学に行くようになっても続いた。いとこと俺と、爺ちゃんとで5・6キロぐらいのウニを1日に採っていた。
ウニを採るのは楽しいのだが、割って身を採るのが大変な作業で夜中の2時から4人でNHKのラジオを聞きながらひたすら朝の7時までウニのシゴ(方言だと思うが「準備」という意味)をさせられていた。
今から考えると1日6万円ぐらいの稼ぎだったように思う。このぐらいの歳から毎晩酒を飲み、タバコを吸いながら爺ちゃんと一緒に酔っぱらっていた。毎晩のように毎日の3杯が5杯くらいになり、説教が始まるのだが、俺は婆さん譲りの負けん気でいつも爺ちゃんを言い負かせて爺ちゃんはいつもショボーンとしながら寝ていた。翌日、いつもと変わらずに朝飯に皮を剥いた(歯が無かったので皮があると噛み切れなかったようだ)トマトと焼酎をすすりながらいとこと俺がうに丼(半年ぐらい冷凍されていたイカと採れたてのウニの丼ぶり)を食べるのを楽しそうに見ていた。
(写真解説:朝刈った道。刈るとかろうじて道だとわかるぐらいだと思うが、歩くとわかる、立派な道である。)
うちの母に言わせると大戦ですべてが狂ったとのことだが、ひい爺さんの石工の棟梁としての仕事を爺ちゃんが継ぐことはなかった。爺ちゃんは一生漁師として生きて、亡くなった。
うちが分家になった当主の中で、唯一恐ろしくまともな人生(大戦を除いて)を過ごした爺さんだったと言えるだろう。じいちゃんがすごかったのは、船の上から鉾でさざえやアワビを採るのが異常に上手かったということと、普段自分ができるとは一言も言わなかったが石工としての腕は非常に高かっただろうことだ。
俺の親父が島の仕事で、ひい爺さんとじいちゃんが組んだと思われる石垣が邪魔になり、若い人に崩させて後で組み直そうとしたところ、5人がかりで半日かけても戻せなくなり、困ってじいちゃんを連れて行ったそうである。
じいちゃんは崩れた石垣を一瞥し、何も言わずに30分程で石を組み上げ、大人が本気でストンピングしてもびくともしないように組み直したそうである。
(写真解説:爺ちゃんが組んだ石垣。農道のそこかしこに組んであり、どうやっても微動だにしない。20年ぶりに開拓したこの道も、爺ちゃんの石垣がしっかりと守っていた。)
俺の爺ちゃんは俺の大学院の入学式(式というものはなかったが)の日に違う世界に旅立った。きっとあっちでも三食決まった焼酎を飲んでいるのだろう。俺が遠い将来あっちに行ったら、きっと日課を変えて5杯飲んで軍歌を歌ってくれると思う。
爺さんが入院することになった時、爺さんは肥を畑に運んでいる最中にかついでいる棒で肩の骨が折れて前立腺ガンが骨に転移していたことが発覚し、そのまま病院で亡くなった。爺さんはネタになりにくい、ブロガー泣かせの普通の人だったが普通のことを普通にできる、というか普通に激痛すらモノともせずに続けられる精神力の持ち主だったのだと思う。
俺が大学院に行くために渡米する時、爺さんを見舞いに行った。俺はこれが今生の別れだと思っていたが、帰国してしばらくした時、俺が駅に行った時に同じく見舞いに行っていた兄貴にこう言ったそうである。「『あいつ』とはこれが最後になるなぁ・・・・」
誰も爺さんが末期がんとは言わなかったのに、爺さんは自分の死期を悟っていたようである。爺ちゃん、俺が行く時は美味い魚釣って行くから一緒に焼酎呑もうな。
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