2017年5月5日金曜日

実家帰省後日譚Ⅳ 3代目、親父の話

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この日は5月1日、親父の法事が前日に終わり、かあちゃんと高畑と呼ばれる元山でも一番高いところにある畑を耕すことにした。水がないわりに水はけが悪いこの土地は雨が降るとぬかるんで耕すのが大変になるのだが、連日の天気に恵まれて耕すには絶好のコンディションとなった。


親父の話を語り尽くすのは不可能にも思えるが、まず確実に言えることは死ぬ直前になるまで俺と親父は仲が悪かった。どのくらいか?と言われると喧嘩をして俺は親父の足の骨を柔道技で投げて折り、足が折れた直後に親父は俺のおでこに強烈なストレートを打ち込み1.5cmぐらいのたんこぶを作ったことがあるぐらいである。目の前で火花が散ったという形容がそのまま当てはまる程強烈なストレートだった。親父め。
ごくごく正直に、ひどく理不尽(と当時は思っていた)で、「こいつを殺さないと俺はいつか殺される」と真剣に考える程だった。
最近、かあちゃんと話していて兄貴は親父にはそれほど似ていなかったのである程度冷静になれていたが、俺はあまりにも親父に似すぎていて感情的になっていたように思うと言われたことがある。思い返してみると、俺と親父はかなり似ていたようだ。
喧嘩して以降、親父と話すことはほぼなくなったが、高校3年の4月時点で偏差値34だった俺が偏差値60ぐらいまで上げてほとんど退学になりかけていた高校を奇跡的に卒業し、さらに現役で地方の大学に受かった時の事、滑り止めだったので浪人したいと思っていたところ、親父から「頼むから受かった大学に行ってくれ」とお願いされたことがある。
今から思うと親父が俺に何かを頼んだのはこれを合わせて2回のみだった。
(写真解説:高畑の俺が草刈りをした後をついて、かあちゃんがトラクターで耕していく。トラクターの運転は親父か、こないだ俺に丸坊主を喰わせた叔父に頼んでやってもらっていたのだが、親父が亡くなった時にかあちゃんが俺に教えてほしいと頼み込み、自分でできるように練習したのである。67にして新しいことに挑戦し、とても満足気にトラクターを運転するかあちゃんである。)


親父とはほとんど話す機会もなく大学を卒業することになり、卒業式が終わって打ち上げに行く準備をしていた時、取り乱したかあちゃんから電話があった。かあちゃんは元々看護師で救急医療をしていたので、素手で心臓マッサージ(実際に開胸して心臓を直接マッサージするわけだ)していたほど肝が据わっているのだが、この時は本当に取り乱していて事態が理解できるまで20分はかかったと思う。曰く、親父がその日の朝、真っ黒い血を吐血し病院に行ったところ末期がんで余命半年だと言われたというのだ。
半年前に健康診断を受けた時には影一つなかったわけだから、半年で急激にガンは成長し、肺の5分の3を侵したことになる。医師が言うには半年生存率は5%を下回るはずだとのことだったので、「とうちゃん、あうとーっ (´゚д゚`)」な状態だった。
俺は兄貴に連絡し、即座に借りていたアパートを引き払い実家に戻るように命じた。
3日後に実家に帰った俺と兄貴はすぐに親父に会い、親父から「治療はしない」旨説明を受けた。そのまま叔父の2家族と温泉巡りをして、ちょっと早いお別れ会をした。
(写真解説:耕した翌朝の写真だが、耕し終わった畑である。途中でマシントラブルがあったため半分から先は俺が耕すことになったが、6月にもう一度耕してササゲという小豆に似た豆と小豆、黒豆を植えるそうである。かあちゃんは10数年間の間親父の看病の合間を縫ってササゲを小規模で実験的に植えてきたが、いよいよ畑全面を使って本格稼働することにしたのだ。手間がかからない小豆類は高齢化の進んだ島の爺婆でも作ることができ、ササゲは赤飯に最適というマーケティングを想定しているらしい。)


温泉をいくつも周り、最後に温泉宿で宴会をした時、ある程度宴もたけなわの状態で見つけた囲碁盤で当時覚えた囲碁をしようということになり、親父に囲碁ができるか聞いたところ打ったことはないができると言う。ここは積年の恨みを平和的に晴らす時が来たとばかりに水を飲んで正気に戻り、全身全霊を以て叩きのめしにかかったが、結果は盤の4分の3を占領されて俺が完敗することになった。
打ったことがない囲碁をどのように覚えたのか親父に聞いたところ、「仕事で出張している時、朝早くに目が覚めてしまい、眠れないことが多かったのでホテルで無料でもらえる新聞を端から端まで読んだがそれでも時間が余った。余ったので暇つぶしに新聞の囲碁欄を眺めていたら自然と身に付いた」という。つまりこれだけを見て覚えたと言うのだ。


思えば親父は恐ろしく頭がいい人だった。地頭の良さでは俺も相当に自信があるが、親父が逝った今、親父は絶対に敵わない存在になった。
そもそも親父は中学を留年している。理由は漁の手伝いで出席日数が足りなかったからだ。底引き網漁船の網が海底に引っかかった時に、水深15mの底まで船の碇を抱えて潜って網を解放するということをしていたのだ。話は逸れるが親父が手術をした時に、二つ対になっている臓器の一つが破裂したまま長期間放置された跡が見つかったと聞かされたことがある。当時同じ作業をしていた親戚のおいちゃんも「耳から血がでよった」と言っていたから、相当めちゃくちゃなことをしていたに違いない。
中学を4年かけて卒業した親父は、海洋関係の専門学校(名前を忘れたが)に入学し、主席で卒業してしまったらしい。その後当時日本でも有数の船舶関係の会社に入社し、船乗りになったそうだ。主席で卒業はしたが、問題を起こして何回もうちのじいちゃんは呼び出しをくらっていたらしい。その度にウニの瓶詰を持ってお詫びに行ったそうだが、問題を起こしたというのが「後輩が先輩にいじめられて学校を辞めそうになったのを止めるために、2学年全員を引き連れて学校を脱走した」とかそういう理由だったらしい。じいちゃんは人に何かを誇ることをしない人だったが、その時だけは妙に誇らしげに話していたのを思い出す。
船乗りだったころの親父は世界各国を回り、下の写真の腹巻(イースターエッグの下に敷いているのが親父の腹巻である。3人兄弟に近所のおばちゃんが作ってくれたらしい。今は俺のものである)に数百万入れた状態でマフィアみたいな人に追い回されたとか放蕩の限りを尽くしたらしい。当時の親父を知るかあちゃん曰く、本格的に宵越しの金を持たなかった人だったという。


親父の頭の良さを伝えられる別の逸話としては、東京でかあちゃんと会い、子ども(兄貴)が産まれた時に「あまりにかわいい」からと言って相当な収入を得ていた船会社を離れ、いろんな職を転々とした後(ホテルマンとか料理人とかをしたらしい)地元に近い小都市でとある電設会社に就職し、そこから電設関係の免許を全て取ってしまったことである。聞いたところによると当時全部の免許を持っている人間は日本に10人程度しかいなかったそうだ。
兄貴が高校生の時、丁度何かの試験準備をしていた親父は兄貴に頭を下げて三平方の定理なんかを教わっていた。めちゃくちゃにスパルタだった親父でも実の息子に頭を下げることができるのか、と驚嘆したことを覚えている。
(写真解説:畑を耕した後、家の横で倒れ掛かっていた木を切ったので薪にしてほしいと母ちゃんに頼まれていたので薪割りをした。
結構大変な作業なので、一日丸太一本のペースでの巻割り作業である。)


お別れ会をしたものの、親父をあきらめきれないのはかあちゃんだった。俺の兄貴は医者、俺はそこまで得意ではなかったもののPCで検索などが当時からできたので、民間療法で完治できるものはないか調べてほしいと言われ、キトサンと霊芝と言うサプリメントを見つけ出した。かあちゃんはそれから親父をうまいことだまくらかしてそれを一日3回15錠のペースで飲ませ始めた。おそらくは、親父も付き合ってやるぐらいはしたほうが良いと思ったに違いない。が、食後にそれを飲み続けるのは辛かっただろうと想像する。
それから半年後、他の治療を一切していなかった親父の肺から影が消えた。別に効くとか効かないとかはわからないが、実際に見せられたレントゲンからは影が見事に消えていた。
が、世の中そんなにうまく行くわけもない。その3か月後、やっぱり急速な速度で成長した肺がんが見つかり、再び余命半年と宣告されることになる。恥をかかされた医者の怨念に違いない。
一度治った時にはやはりうれしかったのだろう、親父はその時、治療をすることを決めた。放射線治療と化学療法を行った後、兄貴のつてでガンセンターに受診に行き、そして外科的に切除することにしたのだ。
医師免許を取得した兄貴は手術に立ち会うことが許された。兄の話では首を横から半分に切り、横隔膜まで半分に上半身を開けた状態で肺の5分の3を切除して手術は成功した。
手術成功後、当時の看護師の方に「おめでとうございます。これから夢は何かありますか?」と問われた親父は「漁師になる」と言って鼻で笑われたそうである。
それからしばらくして正社員を辞めはしたものの、持っている免許がないと仕事が受注できないためコンサルティング職みたいな名義貸しをすることで月給をもらえるようになった親父は、小都市に買っていた家を売りさばいた金で大型の船を800万円で買い、実際に一本釣り漁師を始めたのである。
肺を5分の3切除したものの、親父は若い頃測った肺活量で測定器を完全にひっくり返したため測定できる最大の8,000ccぐらいだったと言っていた。つまり単純計算で3,200ccになったわけだが、それでも常人以上の肺活量である。老いたとは言え体力は相当にあったのだろう、それから何度か死にかける度にかあちゃんの救命行為で復活した親父は実に術後10年余りにわたり一本釣りを続けた。親父が作った仕掛けは出来が良かったらしく、今でも親父の編み出したいくつかの仕掛けの作り方が角島の漁師達に引き継がれているそうである。
色々あって縁遠くなっていた実家のかあちゃんからある日、電話を受けた。その半年前に親父が危篤と言われて「死んでから言って来い」と言った俺に、この時ばかりはかあちゃんは泣きながら「お父さんの意識があるうちに、最後の別れをしてあげてくれ」と俺に頼み込んだ。5年ぶりぐらいか、親父に会った時どんな顔をして会ってよいかわからなかった俺に、親父は開口一番「かわっちょらんの。かあちゃん、のう、かわっちょらんのぉ。」と俺には見せたことがない満面の笑顔と共にのたまい、喧嘩になるだろうと想像していた俺の出鼻をくじいて涙腺を一撃で粉砕した。
今これを書いている時でさえ、なぜか涙が止まらない。親父は俺に「船をついでくれはしないか。」とお願いした。これが親父がたった2度、俺に頼みごとをした最後の1回である。東京で暮らしている俺には即断ができず、どこの家庭でも後継ぎが都合よく見つかるわけではないからと言って断った。寂しそうに笑った親父は、ひとしきり死後のことについて俺に指示を出し、俺はたった3時間の間に脱水してしまうのではないかと思うほど男泣きに泣き、そのまま東京にとんぼ返りした。
その1年後、朝5時に親父の訃報を聞いてその日に実家に戻った俺は、親父の穏やかな顔を見て泣きながらも何故かとても安心した。
先日実家に帰っていた時、かあちゃんに聞いたところによると俺が帰った後に、かあちゃんが親父に「お父さん、私はもう一人で生きていける。頑張るよ」と言った時に親父はこれまでにないほど喜んだらしい。そんな親父は生前、「やりたいことは全てやった」と言っていたらしい。
(写真解説:斧を振り下ろしたところ。金づちや斧で衝撃を受けると前腕が非常に鍛えられるのがわかった。どこかで役に立つのではないかと考えている。)


この日、薪を割った畑で採れたかあちゃん自家製のサニーレタスでサーモンが食いたいと言った俺にかあちゃんが造ってくれた料理が下の写真である。どっかから調達してきた筍と鳥の手羽先の煮物もうまかった。ビールの後ろに隠れているのが法事で使った二見饅頭である。小さいので盆に乗せやすいらしい。
家は3代目が潰すと言われることがあるが、船を継げなかった俺は親父に孝行できなかった分、かあちゃんが好きなことができるようにしたいと思っている。兄貴は医者になり、嫁さんの実家の近くで相談もなしに開業してしまいよったので、結局は俺が4代目になることになった。まあ初代が分家したほどの家である。次男が家長になるのも良いのではないだろうか。
親父が死んだ二日後、親父の葬式は俺の誕生日だった。俺の中で何かが芽をふいたように感じた。大工の叔父と話した時、「親父が全て正しかった」と言った俺に「お前ら親子は本当に・・・」と言って叔父は泣いた。
遠い将来、俺があっちに行ったとき俺はどんな顔をして親父に会うだろうか。この記事を書いている今日の朝、親父の葬式の夢を見た。法事をしたからだろうか。夢占いを見てみると、「独立の暗示」ということだそうだが、一体何から独立するというのだろうか。
親父に会った時、多分まずは土下座をして謝ろうと思う。親父の遺伝子を色濃く継ぎながら親父が死ぬまで何一つ成し遂げられなかったこと、そして船を継いであげられなかったのは後悔と言えば後悔している。
これからなんとか頑張って船を買い、親父の船の名前で「第二○○丸」と名付けられないかと考えている。親父の船の名前はかあちゃんと兄貴の長男の名前から取ったものである。仮に実現したとして、単なる自己満足だろうか。俺はそう思いたくない。

2017年5月4日木曜日

実家帰省後日譚Ⅲ 2代目のじいちゃんの話

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今日実家から東京に戻ってきた。・・・ので、タイトルを帰省中から後日譚に変えてみた。
今日は人に会いたいと思っていたが予定が合わず、朝飯を食ってから何も食わずに帰ってきたので酒を飲んでいる。運命というものが本当にあるのなら、その日その日に起きることぐらいで大筋が変わることもなかろう。帰ってきて体重を測ったところそこまで太っていなかったので少し安心している。疲れやら何やら色々溜まっているので明日は色々な整理をして7月までに備えようと考えている。

下の写真は4月29日に撮ったものだ。前日の続きで畑までの道のりを草を刈っていく。


2代目のじいちゃんは実際に俺が大人になるまで生きていた。「○○っ子」という言葉を俺に当てはめるなら、俺はじいちゃんっ子だ。ばあちゃんっ子が多い中なぜか?というと、俺の婆さんは俺の母親だけには異様に優しかったが、孫には異常に厳しい・・・というか子どもが嫌いだったらしく、ある程度大きくなるまでいつも怒られていたからだ。しかも婆さんは底引き網漁船団の棟梁の家に生まれ、長男が大きくなるまで櫓かき(ボートのオールと言えばわかりやすいだろうか)という長男が行うべき仕事をさせられていた人だ。実の孫に「だから子どもは嫌いだ」といつも言ってしまうぐらい厳しいというか理不尽な人だった。
(写真解説:上の写真はよく見ると右にカーブしていて、右に曲がった角から撮ったのが下の写真である。ここからは現在も唯一、近辺では米を作っている田んぼがあり、その田んぼの下を道が通っている。ここまでが大体80mぐらい?でここから畑まで大体同じぐらいである。)


ちなみに婆さんは俺の高校の卒業式の日にあの世に行った。総合してみるととても優しい、女性的な面を持った人だったように思う。口が異常に悪かったが、今になって思い返すと躾をしてくれているつもりだったのだと思う。
話が逸れた、爺さんの話だった。家は親父含めた3人兄弟だったので、いとこが7人おり(うち2人はかなり遅くに生まれたが)夏になると5人をいつも船に乗せて雑魚釣りに連れて行ってくれていた。俺が12歳ぐらいになった時にはウニ採り・ウニ割り要員として手伝うことになるのだが、子どもだけを預けられてもいつもニコニコ笑って子どもの相手をしてくれていた。
(写真解説:田んぼの横の道の写真。結構草が生えている。写真の真ん中に見えているえぐれているところが道の右側である。)


家のじいちゃんは酒呑みではあったが、朝と昼に一杯、夜に三杯と決まった毎日を刻むような人だった。ひい爺さんのように島中の道と言う道で酔いつぶれて寝てしまうような人ではなかったのは第二次大戦中に軍人をしていたからだろうか。
情報兵の伍長をしていたとじいちゃんの口から聞いている。本気で酔っぱらうと軍歌を歌うのが常だった。夜にはいつも酔っ払いながら将棋の相手をしてくれていた。
昼には釣れた雑魚を船の上で器用に小さなまな板で捌いて刺身を作り、船の船底に隠していた焼酎と温かい麦茶で一杯するのが楽しみのようだった。その辺にある板に乗せた刺身に醤油をかけて食べるおにぎりは格別にうまかったのを今でも覚えている。
戦争の話はあまりしたく無いようだったが、いつも婆さんがいる前で大戦で行った中国でプロポーズして振られた話をしていた。当時の状況を考えると慰安婦だった人にプロポーズしたのだろうと思うのだが、差別とかせずに国際結婚しかけてしまう爺ちゃんはかなりファンキーなジジイだった。というか、素朴さが行き過ぎていたのだろうと思う。
(写真解説:草を刈った道。昔あぜ道だったところは茅が生えやすく、しかもところどころ直径10cmぐらいの木が生えているところを母親が開拓したのだそうである。改めてみると緑のモザイクにしか見えないが、これでも道である。)


俺がある程度の歳、12歳ぐらいになると7月の大潮のタイミングから爺ちゃんチに隔離され、ウニ採りを手伝わされるのが毎年の恒例だった。これは俺が高校を卒業して大学に行くようになっても続いた。いとこと俺と、爺ちゃんとで5・6キロぐらいのウニを1日に採っていた。
ウニを採るのは楽しいのだが、割って身を採るのが大変な作業で夜中の2時から4人でNHKのラジオを聞きながらひたすら朝の7時までウニのシゴ(方言だと思うが「準備」という意味)をさせられていた。
今から考えると1日6万円ぐらいの稼ぎだったように思う。このぐらいの歳から毎晩酒を飲み、タバコを吸いながら爺ちゃんと一緒に酔っぱらっていた。毎晩のように毎日の3杯が5杯くらいになり、説教が始まるのだが、俺は婆さん譲りの負けん気でいつも爺ちゃんを言い負かせて爺ちゃんはいつもショボーンとしながら寝ていた。翌日、いつもと変わらずに朝飯に皮を剥いた(歯が無かったので皮があると噛み切れなかったようだ)トマトと焼酎をすすりながらいとこと俺がうに丼(半年ぐらい冷凍されていたイカと採れたてのウニの丼ぶり)を食べるのを楽しそうに見ていた。
(写真解説:朝刈った道。刈るとかろうじて道だとわかるぐらいだと思うが、歩くとわかる、立派な道である。)


うちの母に言わせると大戦ですべてが狂ったとのことだが、ひい爺さんの石工の棟梁としての仕事を爺ちゃんが継ぐことはなかった。爺ちゃんは一生漁師として生きて、亡くなった。
うちが分家になった当主の中で、唯一恐ろしくまともな人生(大戦を除いて)を過ごした爺さんだったと言えるだろう。じいちゃんがすごかったのは、船の上から鉾でさざえやアワビを採るのが異常に上手かったということと、普段自分ができるとは一言も言わなかったが石工としての腕は非常に高かっただろうことだ。
俺の親父が島の仕事で、ひい爺さんとじいちゃんが組んだと思われる石垣が邪魔になり、若い人に崩させて後で組み直そうとしたところ、5人がかりで半日かけても戻せなくなり、困ってじいちゃんを連れて行ったそうである。
じいちゃんは崩れた石垣を一瞥し、何も言わずに30分程で石を組み上げ、大人が本気でストンピングしてもびくともしないように組み直したそうである。
(写真解説:爺ちゃんが組んだ石垣。農道のそこかしこに組んであり、どうやっても微動だにしない。20年ぶりに開拓したこの道も、爺ちゃんの石垣がしっかりと守っていた。)


俺の爺ちゃんは俺の大学院の入学式(式というものはなかったが)の日に違う世界に旅立った。きっとあっちでも三食決まった焼酎を飲んでいるのだろう。俺が遠い将来あっちに行ったら、きっと日課を変えて5杯飲んで軍歌を歌ってくれると思う。
爺さんが入院することになった時、爺さんは肥を畑に運んでいる最中にかついでいる棒で肩の骨が折れて前立腺ガンが骨に転移していたことが発覚し、そのまま病院で亡くなった。爺さんはネタになりにくい、ブロガー泣かせの普通の人だったが普通のことを普通にできる、というか普通に激痛すらモノともせずに続けられる精神力の持ち主だったのだと思う。
俺が大学院に行くために渡米する時、爺さんを見舞いに行った。俺はこれが今生の別れだと思っていたが、帰国してしばらくした時、俺が駅に行った時に同じく見舞いに行っていた兄貴にこう言ったそうである。「『あいつ』とはこれが最後になるなぁ・・・・」
誰も爺さんが末期がんとは言わなかったのに、爺さんは自分の死期を悟っていたようである。爺ちゃん、俺が行く時は美味い魚釣って行くから一緒に焼酎呑もうな。


2017年5月2日火曜日

実家帰省中Ⅱ 俺んち初代のお話

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今日は母が刈っている畑へと続く道の草刈りである。母曰く、4月の中旬まで母が肺の手術を受ける前には一回刈っていた道が下旬までの雨で一気に伸びたとのことだ。


大根の花というが、とてもきれいな花をつけたこの草が草刈り機に絡み付いてなかなか厄介である。


俺の実家は俺で4代目となる。初代、つまり俺のひい爺さんは角島でも結構な大地主の次男に生まれたと聞いている。そして、この地方なのかどうなのか、大体次男以降は他の家の養子にもらわれるか、寺に出家するのが慣例だったそうで、御多分に漏れずうちのひい爺さんも他の家に養子になったそうだ。
(写真解説:うちの畑へと続く道。全体が完全な放棄地になった段々畑というか、かつては田んぼが連なる立派な土地だったこの放棄地の主な農道を、昨年の夏に母がすべて切り拓いた。)


しかし、うちのひい爺さんは俺を実際に知っている人ならわかるかもしれないが、俺の数倍放蕩息子だったらしい。どのくらいめちゃくちゃだったかは今は知る由もないが、ただ一つ確実に言えるのは養子先から追い返されるほどだったということである。
(写真解説:上の写真の林を抜けると、今度は50メートルほどの直線の道が続く、ここも当然、家の土地ではなく単なる農道である。遠くに見えるのはうちの母ちゃんである。)


そうやって考えてみればある意味幸運だったのかもしれないが、通常はほとんど行われなかった「分家」ということをして、本家の土地を分けてもらってうちの実家は始まった。今でも本家と分家として角島では認知されていて、行くところに行くとそのように呼ばれる。
(写真解説:上の写真の道を刈った後。今日はここまでで家に帰ってサザエを拾いに帰ることにした。前を歩くのはうちの母ちゃん。道が拓けて初めてここが道であることに気付くほどだが、かあちゃんが道を拓いた当初は母ちゃんの横にそびえている茅の草が全体を覆っていたらしい。
母ちゃんは今日までの道を3日で拓いたらしい。70近い婆さんの体力で行ったとはとても思えない。俺も手伝ったとき、同じ背丈の草を10メートル刈るのに2時間かかり、めまいがするほど疲れたのだ。)


が、どちらかというと家の父親の息子としてだったり、兄貴の弟として呼ばれることの方が多い。これは今回のシリーズで少しずつわかってくると思う。
(写真解説:刈った後の林の前の道。)


ひい爺さんは前の投稿でも書いたが石工というか土方の棟梁のようなことをしていたらしく、相当に金回りがよかったそうだ。良かったそうだが、ほとんどを酒で飲んでしまったとも聞かされている。
(写真解説:草を刈った後の出入り口の道。草を刈ると本当にきれいに見える。)


小さいころから聞かされているのだが、角島にある井戸の3分の2はひい爺さんが掘ったものだということだ。8割がた、と聞いているが井戸は昔からあるだろうから少し話が盛られていると思うので、少し控えめに書いている。
(写真解説:この日も潮が引いた時を見計らってサザエを探しに出た。何か落ちてないか探している母ちゃん。)


話半分というのはそこだけで、金回りが良かったがほとんどを酒で飲んでしまったと言うのは実際の話のようである。ひい爺さんは俺の父が17歳の時に、リアルに酒の飲みすぎで死んだと聞かされている。何故酒で死んだとわかるかと言われると、当時の医者に酒をこれ以上飲むと死ぬるぞと脅されていたにも関わらず、死後、牛小屋の天井から一升瓶が山のように隠されているのが発見されたと聞かされているからである。
(写真解説:どっかのおばちゃん。向こうは俺のことがわかるらしいが、俺にはどこの誰かもわからない。説明を聞いてもまるっきり頭に入ってこない。)


それと、ひい爺さんがどこまでめちゃくちゃだったかは、実際に俺が継ぐことになっている土地からも見て取れる。俺が引き継ぐ土地はほとんどが僻地で、いろんなところに飛び地になっている上に出入り口を本家のものとして抑えられていたのである。理由は「酒のために売ってしまいそうだ」からだったそうである。出入り口が抑えられていると土地には値がつけられなくなるからそういうことをしたらしい。
まったく信用されていなかったのが良くわかる。そんな人が家の初代である。俺がこんな性格をしているのもある意味しょうがないのかもしれない。
(写真解説:あまり金もないし土地もすたれているが、漁権を持っているので季節に合わせていろいろなものがとれる。この日は俺に丸坊主を食らわせた叔父ではなく、大工をしている別の叔父が「カラス貝が食いたいから採って来てくれたら新しく作ったベランダの足台を引き換えに作ってやる」と言われてカラス貝を採った。後で文句を言われないように大きいものだけを選別して籠に刺さっている「ガゼ引き」で引っ付いている岩から剥がすようにして採るのである。結構な時間をかけて採ったので叔父貴も喜んでくれていた。)


うちの家はひい爺さんの次男、俺の大叔父が初めて建てた家だそうである。そして2軒目を建てて壊れて怒られたので大叔父は大工を辞め、放蕩の限りを尽くしたそうである。そちらの家系はやくざもいるとかいないとかと聞いている。まともなのは女性だけだそうだ。
(写真解説:家に帰ると猫が家に面した道路を見張っている。新しくできたベランダも物珍しいのだろうと思う。)


ひい爺さんがとんでもない人だったからか、うちの家系の大叔父側はほとんどがやくざ者で消息不明になっているらしい。今母親が相続を俺にまとめてくれようとしているらしいが、ほとんどが消息不明になっているので大変だそうである。ちなみに大叔父はうちの爺様が相続をまとめようと話をした時に「金をよこせ」と言ってご破算になったらしい。
(写真解説:うちのかあちゃんが大工の叔父貴に頼んで造ってもらったベランダである。かあちゃんこれが出来てとてもご満悦だ。ついでに屋根がぐねぐね歪んでいたのも下から支えて直してもらった。)


金にしても二束三文にもならない土地とぐれた大叔父がほとんど素人で造った家なのだが、自然に恵まれて食うものが都会では考えられないぐらいうまいのはありがたいことだと思う。この日のメニューは親父の同級生でとてもよくしてくれる漁師のおいちゃんがくれたヒラマサの刺身と海岸で採れた貝の煮物、家で採れた野菜と料理動画のために作ったレンコンのチーズ焼きである。


2017年4月27日木曜日

実家帰省中Ⅰ

雨が降っていて火を起こせないかと心配したが、やはり天の神様は俺に火を起こすよう仰せられているようだ。
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そして帰省1日目のおかずがこれだっ( ゚Д゚)

特に新鮮でもないが、カツオで一杯いただいた。

翌朝、家の周りの草刈を母から命ぜられたのだが、いとこが叔父に電話して「釣りに連れて行ってやってくれ」と言ったため、朝10時ぐらいから釣りに行くことになった。

船を迎えるいとこ


今回の漁はただひたすら船を走らせながら仕掛けをしゃくる(50㎝ぐらい引いては離すを繰り返す)というのを繰り返す。2時間ほど、ただひたすらしゃくり続けるも・・・


みなさんは見つけられるだろうか?イルカが出てしまって丸坊主となってしまった。親父と漁に出た時は丸坊主ということは全くなかった。これは船頭(叔父貴)のせいに違いない。
ちなみに誰かにも説明したがイルカが出ると全く漁にならないため、漁師はイルカを毛嫌いしている。静岡県のように食ったりはしないのだが・・・

そして結局はおとなしく家に帰って家の周りの草を刈ることになるのだが・・・


ただ、叔父貴もただの役立たずの船頭に成り下がるのはいやだったのか、前に釣れていたエイをくれた。今回母ちゃんと出している動画が記念すべき100本目になるので記念に珍しいエイの洗いを作ってみた。と言っても叔母に作り方を教えてもらったのだがw
<エイの洗いの作り方>

 
叔父貴は漁は下手だが、楽して何かを得るのには人並ならない才覚を発揮する。今日は大潮なので岸壁に行けと言われ、母と二人で網だけ持って岸壁に行ってみる。



まあ普通の人にはわからないと思うが、浅瀬を探るとどんくさいサザエが結構な量取れる。今日は既にブリとエイの刺身が確定なのだが、サザエまで手に入る。明日の酒の肴が確定である。ちなみにサザエは結構常温で生きるので別に一日置いておいても大したことはない。

帰り際に、丘の中腹に石の建造物を見つけ、これが爺さんが作ったお地蔵さんのお堂だと聞かされる。
その昔、海苔かき漁の最中に足を取られて本当に波にさらわれて亡くなられた方のために家のじいさんが作ったものだと聞かされる。
家の初代と2代目の爺さんは石工だったので、この辺の作業はお手の物だったと思われるが、さすがに1日かかったそうで一日行方不明になったためにばあさんにこっぴどく叱られたらしい。
後日、経緯を聞かされたばあさんが「はよう言えばよかったのに・・・」と言っていたそうだが、言って聞くような家系でないのは俺を個人的に知っている人ならすぐにわかるだろう。


そして、今日の晩餐である。
エイの洗いとブリの刺身で一杯いただくのは、今日はほとんど働いていないのでもったいなく思う。

2017年4月25日火曜日

トレーニング日誌 2017/4/23~

一連の記事で行っている実験のまとめはこちらのページ、生活実験:トレーニングを参照ください。

ざっくりまとめると忙しい中で一日30分と週1回のウェイトトレーニング、食事制限で体脂肪を落とせるのか?という実験をやっています。

2017/4/23
体重:71.4kg
体脂肪率:19.0%
基礎代謝量:1604kcal
肉体年齢:36歳

シックスパックトレーナー Lv.15
※今日は帰りまぎわに残業が決まり、そのこと自体はチームとしては良かったんだが、ひどくイラつく環境で集中力が必要な仕事をしたので眠れなくなると思って酒を飲んでいる。
今日はそれほど頑張ったからいいと思う。



2017/4/24
体重:71.6kg
体脂肪率:18.5%
基礎代謝量:1618kcal
肉体年齢:35歳

※今日はちょっと色々あってお休みにしてみた。明後日からは実家に帰るので、色々準備などを・・・



2017/4/24
体重:71.6kg
体脂肪率:17.6%
基礎代謝量:1642kcal
肉体年齢:33歳

※準備をしてたら結局えらく遅くなってしまった。
腹も減りすぎたしこのまま飯を食って寝ようと思う。
明日からは実家に帰るので、しばらくトレーニング日誌はお休みにして、次のシーズンをゴールデンウィーク明けから始めようと思う。
実家にいる間は大きく太ることのないように注意しながら、少し奔放に鍛えてみようと考えている。いや、よく頑張ったよこの4か月(*´▽`*)



2017年4月22日土曜日

トレーニング日誌 2017/4/21~

一連の記事で行っている実験のまとめはこちらのページ、生活実験:トレーニングを参照ください。

ざっくりまとめると忙しい中で一日30分と週1回のウェイトトレーニング、食事制限で体脂肪を落とせるのか?という実験をやっています。

2017/4/21
体重:72.1kg
体脂肪率:18.3%
基礎代謝量:1636kcal
肉体年齢:34歳

シックスパックトレーナー Lv.15
※粘着力がなくなってきたのか、今日はそこまで拷問にはならなかった。
そして今日は酒を飲もうと思う。最近回数が増えてきているが・・・言い訳など言わないっ 飲みたいからだっ( ゚Д゚)



2017/4/22
体重:71.9kg
体脂肪率:19.7%
基礎代謝量:1603kcal
肉体年齢:37歳
フレンチプレス(10kg) x20
ワンハンドローイング(10kg) x15
ダンベルカール(10kg) x15
ダンベルランジ(左右:10kg) x10x左右
サイドレイズ+デッドリフト(10kg) x10
トライセプスエクステンション(10kg) x10
大胸筋アイソメトリック x2

※連続して酒を飲むと、やはり酒量は変わらなくなるw
ここ最近試験が終わってから、月末は実家に帰るので色々手につかなくなってきている。まーしばらく頑張ったのでそれはそれでいいのだろうと思うが、何もしないと今まで時間がなくて調べられなかった全くブログや仕事に関係ないことを調べるようになった。
こう言う時間があっていいのだと思う。
78:22という「ユダヤの法則」とか言うものに興味を持ったり、応用情報処理技術者試験のシラバス読んでみたり、とりとめのない情報がなんだか心地よく感じる。

2017年4月20日木曜日

トレーニング日誌 2017/4/18~

一連の記事で行っている実験のまとめはこちらのページ、生活実験:トレーニングを参照ください。

ざっくりまとめると忙しい中で一日30分と週1回のウェイトトレーニング、食事制限で体脂肪を落とせるのか?という実験をやっています。

2017/4/18
体重:72.7kg
体脂肪率:17.6%
基礎代謝量:1646kcal
肉体年齢:33歳

シックスパックトレーナー Lv.15
※なんだか最近シックスパックトレーナーが・・・痛い・・・
今日は仕事で異常にむかついて今酒を飲んでいる。





2017/4/19
体重:72.9kg
体脂肪率:17.4%
基礎代謝量:1674kcal
肉体年齢:33歳

※今日は職場の人と飲み会。


2017/4/20
体重:72.9kg
体脂肪率:18.5%
基礎代謝量:1652kcal
肉体年齢:35歳

※昨日酒を飲んで帰ってきて、朝起きて体重を測ったら71.8kgになっていた。ほとんど食わずに酒だけ飲んだからだろうと想像した。今日はジムに行ってトレーニングをしようかと思っていたのだが、試験が終わったからかやる気になれず、一日中ゴロゴロしていた。
こんな日があってもいいんではないかと思う。今週は休みが今日だけなので、今日はゆっくり休むことにする。
昼もカップ麺を食ってやった。多分ずっと試験とトレーニングだったので疲れたんだろう。。。明日の俺が頑張ってくれるさ、きっとww