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When I got home it was raining, so I was thinking maybe I can't make a fire for the first day of home as usual. But mighty God probably said I should in the end, the rain stopped and I made a fire this time as well.
Then, the first meal at home was like this ( ゚Д゚)
It's not very fresh or anything, but bonito sashimi went very well along with beer and Shochu.
The next morning, my mom ordered me to cut grasses around the house, but my cousin called up my uncle and asked him to let me go fishing with, so I happened to go fishing around ten o'clock.
My cousin waiving to the uncle's boat.
The way we fished this time was to pull and release the 40 yards string for 2 feet every 2 to 3 seconds. For two hours, I kept pulling the string...
Let's see if you could find one. So many dolphins came along the boat and we couldn't catch any. When I used to go fishing with my father, we always caught something. This must mean the captain (my uncle) sucked at leading the boat.
By the way, seeing dolphins means you barely can catch fish, so fishermen hate them. Although, we don't eat dolphins like in Shizuoka...
So I came back to home and started cutting grasses, but...
My uncle probably couldn't stand with the fact that he was just a stinking fisherman, so he gave us a ray instead. Our Youtube videos had accumulated up to 99 by the time, so we decided to upload the video how to eat rays for the 100th. Oh, actually my aunt told us how to though.
<How to dress rays>
My uncle may suck at fishing, but he has a given talent in how to get stuff with less efforts. He told us to go to the coast, so my mom and I went there in the evening.
It may be really difficult for people who do not use to look for turban shells, but we can gather so many of them when it is on the ebb tide. We already had yellow tail fish and a ray for the dinner that night, but we got some turban shells in addition to them. We got the dish for the alcohol for the day after. BTW, turban shells could live for a day or two in room temperature, so we could just leave them in the sea water.
On our way back in the middle of the hill, I found rocks that looked somewhat artificial and was told that was the Jizo shrine my grand father made.
Once upon a time, there was a lady who accidentally slipped and was drowned, and passed away, then my grand father made the shrine for her.
The first and second (my grand father) patriarchs were masons, so it was probably not difficult for him to make one, but it took him the whole day. The one who got pissed off with his absence was my grand mother and she scolded him so madly, that I heard.
After several days, she was told what he was doing on the day by neighbors, and she said "why did he not say that earlier?" but you would understand she wouldn't have listened to him if you knew me personally.
And, this was my dinner that night.
Fresh ray and yellowtail fish with beer and Shochu may have been too much for the little tasks I did on that day.
2017年5月8日月曜日
2017年5月7日日曜日
実家帰省後日譚Ⅵ 4代目 そしてこれから
(For English users, there is an English entry: here)
東京に戻る前日のこの日、島では祭りが行われて毎年恒例の行事となっている魚つかみ券が子ども達に配られる。
昨年は中学坊主ならではの生意気さで「そんなもの行きたくない」と言い放った甥っ子に、「金もかせげねえくせにただでもらえるものがあるんだったらもらって来いっ( ゚Д゚)」と強制的に行かせたが、今年はうちの畑への道を拡張する工事を手伝わせることにした。
身長はある程度になってきたが作業着が身に付かない甥っ子である。
以前にも書いたが、俺の兄貴は医者である。しかし長男なので当然家を継ぐものと思っていた。それもあって俺は当然のごとく自分の家を自分で作るものだと思っていた。
ある出来事があって兄貴と大喧嘩した俺はことごとく兄貴からの連絡を無視し、親父の葬式の日まで口も聞かなかった。
親父が亡くなる一年前、親父に兄貴が嫁さんの実家近くに借金をして病院を開業したことを知らされた俺は、親父にかあちゃんを可能な限りサポートすることと、東京が疲れたらいつでも帰って来いと命ぜられた。兄貴に関しては別の家を持つことになったから継がせられないだろうとも言われた。ちなみに呼吸器をつけていた親父は筆談とのどから漏れる空気音で必死に俺に最後の命令を告げた。
その後、かあちゃんは親父と示し合わせていたかのように俺に実家の全ての相続をまとめるように話をまとめだし、俺も時間を置いて考えて後を継ぐことに同意した。
(写真解説:へっぴり腰でおそらく初代から受け継がれた片側が折れているつるはしを振り下ろす甥っ子。こいつは兄貴の病院を継ぐつもりで進学校に進む準備をしている。魚つかみに行っている長女と次女はどうかしらんが、こいつもどうやら別の家の子となってしまうようだ。)
親父の話を書いていて、一つ思い出した。親父の最後の遺言は「15分前に職場に行き、汚い仕事も厭わずしろ」だった。すまん、親父。忘れてた。
通夜の日に再度兄貴と大喧嘩になったが、兄貴は「自分の子どもに後を継ぐのを強制するなどできない。人間は自由に生きるべきだ」となまっちょろいことを抜かしてた。まあ一理あるかもしれないが、自分が取る道が親父にどのように受け止められるかなど考慮できないという意味で他人に対する配慮に欠けている点で、こいつは医者になってつくづく良かったのだろうなと思う。
(写真解説:今回の拡張工事は俺もみよう見まねで行ったため、実験的なものではあったが多分ここをトラクターが安全に通れるようにはなったと思う。ちなみに手前が甥っ子が削ったところ、奥が俺が削ったところである。ところどころ地面から出てくるトカゲに気を取られたりしてたが、最後までよく頑張った。褒めてツカワス。)
今現在、手元に持っているものが俺には何もないが、かなり俯瞰して考えるに国というものは家族の集まりなんだと考えるに至った。核家族化は国を弱体化させ、少子化問題を深刻にしている一因になっているのではないかと真剣に思う。
もし、こんな俺でもできることがあるなら、どのような形であれ家系を守ることなのだと考えている。まあ嫁の来ては未だ見通しが立っていないがwww
(写真解説:姪っ子どもが取ってきた魚を捌いて今回の最後の食事にした。7匹の魚から取れた臓物の煮込みは酒飲みには堪らない逸品である。俺と甥っ子が土方工事をしていた丁度その頃、他の全員は祭りを存分に楽しんできたらしい。)
家の前の道が完全に渋滞し、やることのなくなった俺は甥っ子に薪割りを手伝わせた。田舎で生活をしたことのない甥っ子には珍しい経験だったらしい。俺も今の甥っ子と同い年ぐらいのころから薪割りをさせてもらえるようになったのを思い出す。
翌日、家を出る直前にもう一度薪割りを甥っ子に指導した俺は新幹線で東京に戻り、その足で帰省前に整備に出していたバイクの受け取りに行って荷物を実家で奪ってきた網用の紐で縛ってアパートに戻った。
前輪と前輪ブレーキの交換と利かなくなっていた後輪ブレーキのオーバーホール後の我愛車である。
年間の半分を実家で、半分を東京で過ごすようにするという俺の野望はまだ始まったばかりである。
東京に戻る前日のこの日、島では祭りが行われて毎年恒例の行事となっている魚つかみ券が子ども達に配られる。
昨年は中学坊主ならではの生意気さで「そんなもの行きたくない」と言い放った甥っ子に、「金もかせげねえくせにただでもらえるものがあるんだったらもらって来いっ( ゚Д゚)」と強制的に行かせたが、今年はうちの畑への道を拡張する工事を手伝わせることにした。
身長はある程度になってきたが作業着が身に付かない甥っ子である。
以前にも書いたが、俺の兄貴は医者である。しかし長男なので当然家を継ぐものと思っていた。それもあって俺は当然のごとく自分の家を自分で作るものだと思っていた。
ある出来事があって兄貴と大喧嘩した俺はことごとく兄貴からの連絡を無視し、親父の葬式の日まで口も聞かなかった。
親父が亡くなる一年前、親父に兄貴が嫁さんの実家近くに借金をして病院を開業したことを知らされた俺は、親父にかあちゃんを可能な限りサポートすることと、東京が疲れたらいつでも帰って来いと命ぜられた。兄貴に関しては別の家を持つことになったから継がせられないだろうとも言われた。ちなみに呼吸器をつけていた親父は筆談とのどから漏れる空気音で必死に俺に最後の命令を告げた。
その後、かあちゃんは親父と示し合わせていたかのように俺に実家の全ての相続をまとめるように話をまとめだし、俺も時間を置いて考えて後を継ぐことに同意した。
(写真解説:へっぴり腰でおそらく初代から受け継がれた片側が折れているつるはしを振り下ろす甥っ子。こいつは兄貴の病院を継ぐつもりで進学校に進む準備をしている。魚つかみに行っている長女と次女はどうかしらんが、こいつもどうやら別の家の子となってしまうようだ。)
親父の話を書いていて、一つ思い出した。親父の最後の遺言は「15分前に職場に行き、汚い仕事も厭わずしろ」だった。すまん、親父。忘れてた。
通夜の日に再度兄貴と大喧嘩になったが、兄貴は「自分の子どもに後を継ぐのを強制するなどできない。人間は自由に生きるべきだ」となまっちょろいことを抜かしてた。まあ一理あるかもしれないが、自分が取る道が親父にどのように受け止められるかなど考慮できないという意味で他人に対する配慮に欠けている点で、こいつは医者になってつくづく良かったのだろうなと思う。
(写真解説:今回の拡張工事は俺もみよう見まねで行ったため、実験的なものではあったが多分ここをトラクターが安全に通れるようにはなったと思う。ちなみに手前が甥っ子が削ったところ、奥が俺が削ったところである。ところどころ地面から出てくるトカゲに気を取られたりしてたが、最後までよく頑張った。褒めてツカワス。)
今現在、手元に持っているものが俺には何もないが、かなり俯瞰して考えるに国というものは家族の集まりなんだと考えるに至った。核家族化は国を弱体化させ、少子化問題を深刻にしている一因になっているのではないかと真剣に思う。
もし、こんな俺でもできることがあるなら、どのような形であれ家系を守ることなのだと考えている。まあ嫁の来ては未だ見通しが立っていないがwww
(写真解説:姪っ子どもが取ってきた魚を捌いて今回の最後の食事にした。7匹の魚から取れた臓物の煮込みは酒飲みには堪らない逸品である。俺と甥っ子が土方工事をしていた丁度その頃、他の全員は祭りを存分に楽しんできたらしい。)
家の前の道が完全に渋滞し、やることのなくなった俺は甥っ子に薪割りを手伝わせた。田舎で生活をしたことのない甥っ子には珍しい経験だったらしい。俺も今の甥っ子と同い年ぐらいのころから薪割りをさせてもらえるようになったのを思い出す。
翌日、家を出る直前にもう一度薪割りを甥っ子に指導した俺は新幹線で東京に戻り、その足で帰省前に整備に出していたバイクの受け取りに行って荷物を実家で奪ってきた網用の紐で縛ってアパートに戻った。
前輪と前輪ブレーキの交換と利かなくなっていた後輪ブレーキのオーバーホール後の我愛車である。
年間の半分を実家で、半分を東京で過ごすようにするという俺の野望はまだ始まったばかりである。
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プロジェクト「おれんち」
2017年5月6日土曜日
実家帰省後日譚Ⅴ 3.5代目 かあちゃんの話
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5月2日のこの日、放棄地のど真ん中にある畑までの道を刈って、高畑を耕すのも終わったので、田尻というところにある放棄地のど真ん中にあるうちの畑のあぜ道を刈ることにした。
かあちゃんは以前からここにある畑をトラクターで耕したいと言っているのだが、道が狭いところや下の写真のように木の切り株があって危ないので止めておけと言っていた。しかしうちのかあちゃんはあきらめが悪い。話をするたびにその話をされるため、俺の方が根負けして土木工事をすることにした。
うちのかあちゃんはとかく諦めが悪い。親父が死の淵から何度もこの世に呼び戻されたのも、俺が今のように頭脳労働で食っていけているのも、かあちゃんの諦めの悪さのおかげである。
今ではそれほど珍しくないと聞いているのだが、俺は2歳になっても話すことはおろか、立つことすらしなかったらしい。当時、近所の内科兼小児科の開業医にかかったところ、「この子は知恵遅れだから覚悟しろ」という宣告を受けたらしい。
(写真解説:上の写真の斧で地面に埋まっている切り株を叩き切って取り除く。薪割りのように腰の位置に合わせて斧を振るのと比べ、完全に足元にあるものに対して斧を振るのは結構きつい作業である。)
医者という職業はある意味いい加減だと言うことをある程度内情を知るとわかってくるのだが、何かシャーマン的な力を持つ、それこそ前時代的な発展途上の統計情報をかあちゃんは真向から否定した。
(写真解説:一つの切り株を取り除いたところ。30分がかりで斧を振り続けてようやく一つだけである。これが後5・6本あるのを見るにつけ、少し取り掛かり始めたのを後悔してしまう。)
その日からかあちゃんは歩かない俺を仰向けにし、俺の足の裏を「こうやって歩くのだ」と押し続け、暇さえあれば本を読み聞かせた。
その後、俺は何とか歩くようになり、10歳ぐらいまで友達と普通にコミュニケーションができるようになるまでになった。話が少し逸れるが俺は10歳の時、どうやら俺の日本語がちゃんとしたコミュニケーションが取れないレベルでおかしいことに気づくことになる。軽い言語障害だったと思われることを合わせて考えると、確かに少し特殊な成長過程だったのだろうと思われる。
(写真解説:斧を振るのに疲れ切ってしまったため、草刈りをすることにした。現在開拓されている畑は全部で6枚でここが1番初めに切り拓いたところである。それほどあぜは目立たないが、ここからあぜ道をつけていく。ちなみに家の土地は大町と呼ばれる大きな畑が未開拓のまま残っている。今開拓されている土地全体と同じぐらいの広さがあるらしい。)
発達障害に加え、兄貴はアトピー、俺は卵アレルギーを患っていた。兄貴のアトピーは東京から居を変えて少ししてから改善していったらしいが、俺の卵アレルギーはひどかったらしく少しの量でジンマシンやらが全身に広がっていたので難儀したそうである。
大体卵が入っている食品の種類は異常に多いので、ひどく苦労して食事を作ったらしい。
そして、かあちゃんの諦めの悪さはここでも発揮される。
(写真解説:1枚目の畑を刈り終え、2枚目の一段高くなった畑に取り掛かる。2枚目以降の畑は大半が最後まで何かを植えていた様子で、そこまで荒れてはいなかったようだ。肺の手術を終えたばかりのかあちゃんは3か月間、草刈機を使うことを医者から禁じられているためちょっとした掃除などをして、草刈りは俺に一任した。)
かあちゃんは俺の食事に少しずつ卵を加え、食べ終えた俺の全身を触診し、結果を基に量を調整しながら俺が10歳を超えるぐらいで根治させてしまったのである。
後日アメリカに留学し、健康診断を受けた時に「アレルギーはあるか?」との設問があって、看護師の方に「昔卵アレルギーがあったが今は根治している。書くべきか?」と聞いたところ驚嘆していた。卵アレルギーがどの程度根治が困難かについては全く知る由がないが、治ったものは治ったのである。毎日生卵入りの納豆を食っても今ではなんともない。
(写真解説:2枚目の畑。左側に見える少しこんもりした草がハナッコリーという植物らしい。かあちゃんは放棄地のど真ん中に黄色の花を咲かせたら気持ちが良いだろうということで昨年の冬に植え付け、ハナッコリーは見事に花を咲かせたらしい。)
俺が10歳の時からかあちゃんは看護師として働き始めた。かあちゃんはとある大学医学部付属の看護専門学校のような学校(その後その学校が色々と変遷しているためこのような書き方になるのだが)に通って免許を取り、親父との結婚と同時にいったん専業主婦をしていたのだが、俺と兄貴の学費が必要になることを見越して働き始めたらしい。
卵が食えるようになった俺は卵焼きから叩きこまれ、いっぱしの家事ができるように教育された。このころから兄貴と俺は全然違う行動パターンを示したらしく、兄貴は家事全般一切のことに対して協力をしなかった。何故か弟が兄貴の食事の面倒をみるという生活がその後しばらく続く。
(写真解説:2枚目の畑は縦に長い。花が咲いたころはツキノワグマの月の部分みたいな形だっただろうと想像している。かあちゃんは来年はさらに花を植える範囲を広げて島の人間を驚かせたいと考えているようだ。)
俺が11歳の頃、当時の小学生が受けさせられていたIQテストで俺と兄貴は高得点を取ったらしい。当時の俺の担任に「あんたが働きに出てこの子達がぐれたらあんたの責任だ」などという暴言を受けたらしい。
俺については見事にぐれてしまったのだが、それでもこの時からかあちゃんが働いて少しずつ金を貯めてくれたので兄貴は医学部を卒業し、俺はアメリカの大学院まで行かせてもらったことを考えると、当時の担任の大きなお世話は母の逆鱗に触れたようで、家事と仕事の両立を見事に成し遂げた。ちなみにIQに関しては俺の方が兄貴よりずいぶん高いことだけは俺の名誉のために申し添えて置く。
(写真解説:草を刈る前の5枚目の畑。5枚目の畑は道に隣接しているため、ここにトラクターを入れられるようにすることで農作業の効率化を図りたいらしい。高く生えているこの草は茅で、根っこが異常に固く草刈りの難易度は非常に高い。半分ぐらいのところで心が折れかけている俺をかあちゃんは「こいつあきらめるやろうか?」と見ていたらしい。かあちゃん、確かに半分ぐらい折れかかっちょったよ。)
かあちゃんはその後、大きな総合病院に転職し、総婦長に上り詰めることになる。ただしかあちゃんはあくまで金のために働いていたようで、仕事はともかく職場環境を嫌い抜いていた。
(写真解説:刈り終えた5枚目の畑。草がなくなるとようやくこの畑が一応は平たんな場所であることに気づかされる。去年の夏に切り拓いてから都度草刈りをしているかあちゃんには頭が下がる。こつは少しずつやることなんだそうだ。)
そしてかあちゃんは親父の肺がん発症とともに状況に合わせて職や働き方を変え、親父を支えることに専念した。親父が亡くなった時はさすがに憔悴していたが、電話するだけだと話すネタが無くなることが危惧されたため、以前俺が作っていた料理動画を再開して一緒に作ることにした。
部品代をかあちゃんに出させ、PCを組み立てて携帯電話で動画を録る方法を教え込み、毎週1回の打ち合わせで週1回の動画アップロードを現在まで継続している。まともにPCを触るのはかあちゃんにとってこの時からなのだが、新しいことに挑戦するのは苦にならないらしい。
(写真解説:一仕事終えた畑でクレソンとセリという野菜を収穫したかあちゃん。実験的に植えた植物が根付いて満足気である。)
親父の帰郷と共にほとんど知り合いのいない島に定住することになったかあちゃんは、過疎化が進むこの地に住む人たちが何ら対応をしないことを親父の存命中から危惧していたらしい。
昨年の7月に俺が久しぶりにウニを採りに帰った時、俺はかあちゃんに「他の誰もしないのであれば自分がするしかない。結果のわからないものに挑戦しようとする人間はそういるものではない」と言い、一転暇人と化したこの婆さんの諦めの悪さに再度火をつけることに成功した。
かあちゃんは去年の8月から完全に放棄地と化した上の写真の道を刈り始め、友人の協力もあって400mにわたって背丈以上に伸びた雑草というか荒地の道を切り拓いて他の道と完全につなげることに成功したのだ。
(写真解説:家に帰って食事と昼寝をしたら、先日刈った家の周りの雑草が丁度乾いていたのでたき火で燃やすことにした。道に散乱した雑草を集めていく。)
昨年の冬までに切り拓いた道に隣接する畑を何枚か開拓したかあちゃんは、今度は何の植物が売れるのか、どのような土地でどのような植物が育ちやすいのかについて調査を行い、今年、角島原産が疑われる蕎麦とかぼちゃ、ササゲなどの豆類を実験的に植えることにしているようだ。
(写真解説:家の納屋から表通りに抜ける道は昔からユリが自生している。この草を焼くと独特な匂いがしてかなり長いことくすぶるような焼け方をする。右下に写っているのはかつて米の保存に利用されていたものを利用してかまどに作り替えたものである。こちらは2代目の自作かまどである。)
昨年の冬、寒くてあまりやることがないかあちゃんは近所中の椿の種を拾い集め、椿油を自作することに成功した。売ろうと考えたが椿油などのように化粧品としての用途を持つ物には化粧品製造販売業という免許が必要らしい。
こちらについてはダメもとで免許取得を試みている。
(写真解説:表通りに面した初代の自作かまど。かあちゃんが毎日の散歩の後に友達とたき火をしたいというので去年帰省した時に増設した。これで家の前の道で刈った草を焼く。)
そして最近、かあちゃんは近所の道の駅での販売権を取得した。家の周りに自生しているミカンを含めた農作物を販売しようとしているのだ。
俺がすぐに実家に帰るわけにいかない現状、かあちゃんには申し訳ないが年金生活に甘んじてもらう暇はない。なんとか販路を拡大し、年間200万円程度の収益が上げられるようにしてもらう必要があるのだ。物価が安く、既に家があるので200万円あればなんとか生活できる水準になる。そこになんらかの職で得る収入を合わせれば生活は楽になると想定している。
(写真解説:ゴールデンウィーク前日のこの日、兄貴の家族が姪っこの習い事が終わってから帰省すると言い出したため、帰省予定時刻の23時頃まで起きていなくてはならなくなった。酒を飲まずにいようと思っていたのだが、親父の親友の漁師のおいちゃんが「まるご」という魚をくれたため、21時まで我慢して一杯やることにした。かあちゃんは19時には食事を終わらせるため、今日に限って食事は自分が作ることにした。
畑で採れたクレソンはそのままサラダにして、セリはかあちゃんがゴマの和え物にしてくれた。「まるご」はやはり漁師さんだからだろうか、絞め方がうまいのか格別にうまい感じがした。)
野菜を切るだけ切ってくれたかあちゃんは眠気に勝てず眠りに落ちた。ニンニクの芽と玉ねぎ、牛肉を塩コショウと瓦そばのツユで蒸し焼きにしてみた。半分ほど食ったところで兄貴が帰省し、残りの半分を兄貴に食われてしまった。
いつまで俺の作った料理を食うのだ、貴様はっ( ゚Д゚)
兄貴の嫁さんのお母さんも同行してきたため、あらかじめ敷いていた布団が足りずにこの日の俺はかつて親父が寝ていた母ちゃんの横に寝ることになった。
実家で飼っている2匹の猫がかあちゃんを守るように入れ替わり立ち代わり、かあちゃんの眠りを妨げないように静かに見張りをしている。これならしばらくはうちのネコ科小型動物がかあちゃんを守ってくれることだろう。
5月2日のこの日、放棄地のど真ん中にある畑までの道を刈って、高畑を耕すのも終わったので、田尻というところにある放棄地のど真ん中にあるうちの畑のあぜ道を刈ることにした。
かあちゃんは以前からここにある畑をトラクターで耕したいと言っているのだが、道が狭いところや下の写真のように木の切り株があって危ないので止めておけと言っていた。しかしうちのかあちゃんはあきらめが悪い。話をするたびにその話をされるため、俺の方が根負けして土木工事をすることにした。
うちのかあちゃんはとかく諦めが悪い。親父が死の淵から何度もこの世に呼び戻されたのも、俺が今のように頭脳労働で食っていけているのも、かあちゃんの諦めの悪さのおかげである。
今ではそれほど珍しくないと聞いているのだが、俺は2歳になっても話すことはおろか、立つことすらしなかったらしい。当時、近所の内科兼小児科の開業医にかかったところ、「この子は知恵遅れだから覚悟しろ」という宣告を受けたらしい。
(写真解説:上の写真の斧で地面に埋まっている切り株を叩き切って取り除く。薪割りのように腰の位置に合わせて斧を振るのと比べ、完全に足元にあるものに対して斧を振るのは結構きつい作業である。)
医者という職業はある意味いい加減だと言うことをある程度内情を知るとわかってくるのだが、何かシャーマン的な力を持つ、それこそ前時代的な発展途上の統計情報をかあちゃんは真向から否定した。
(写真解説:一つの切り株を取り除いたところ。30分がかりで斧を振り続けてようやく一つだけである。これが後5・6本あるのを見るにつけ、少し取り掛かり始めたのを後悔してしまう。)
その日からかあちゃんは歩かない俺を仰向けにし、俺の足の裏を「こうやって歩くのだ」と押し続け、暇さえあれば本を読み聞かせた。
その後、俺は何とか歩くようになり、10歳ぐらいまで友達と普通にコミュニケーションができるようになるまでになった。話が少し逸れるが俺は10歳の時、どうやら俺の日本語がちゃんとしたコミュニケーションが取れないレベルでおかしいことに気づくことになる。軽い言語障害だったと思われることを合わせて考えると、確かに少し特殊な成長過程だったのだろうと思われる。
(写真解説:斧を振るのに疲れ切ってしまったため、草刈りをすることにした。現在開拓されている畑は全部で6枚でここが1番初めに切り拓いたところである。それほどあぜは目立たないが、ここからあぜ道をつけていく。ちなみに家の土地は大町と呼ばれる大きな畑が未開拓のまま残っている。今開拓されている土地全体と同じぐらいの広さがあるらしい。)
発達障害に加え、兄貴はアトピー、俺は卵アレルギーを患っていた。兄貴のアトピーは東京から居を変えて少ししてから改善していったらしいが、俺の卵アレルギーはひどかったらしく少しの量でジンマシンやらが全身に広がっていたので難儀したそうである。
大体卵が入っている食品の種類は異常に多いので、ひどく苦労して食事を作ったらしい。
そして、かあちゃんの諦めの悪さはここでも発揮される。
(写真解説:1枚目の畑を刈り終え、2枚目の一段高くなった畑に取り掛かる。2枚目以降の畑は大半が最後まで何かを植えていた様子で、そこまで荒れてはいなかったようだ。肺の手術を終えたばかりのかあちゃんは3か月間、草刈機を使うことを医者から禁じられているためちょっとした掃除などをして、草刈りは俺に一任した。)
かあちゃんは俺の食事に少しずつ卵を加え、食べ終えた俺の全身を触診し、結果を基に量を調整しながら俺が10歳を超えるぐらいで根治させてしまったのである。
後日アメリカに留学し、健康診断を受けた時に「アレルギーはあるか?」との設問があって、看護師の方に「昔卵アレルギーがあったが今は根治している。書くべきか?」と聞いたところ驚嘆していた。卵アレルギーがどの程度根治が困難かについては全く知る由がないが、治ったものは治ったのである。毎日生卵入りの納豆を食っても今ではなんともない。
(写真解説:2枚目の畑。左側に見える少しこんもりした草がハナッコリーという植物らしい。かあちゃんは放棄地のど真ん中に黄色の花を咲かせたら気持ちが良いだろうということで昨年の冬に植え付け、ハナッコリーは見事に花を咲かせたらしい。)
俺が10歳の時からかあちゃんは看護師として働き始めた。かあちゃんはとある大学医学部付属の看護専門学校のような学校(その後その学校が色々と変遷しているためこのような書き方になるのだが)に通って免許を取り、親父との結婚と同時にいったん専業主婦をしていたのだが、俺と兄貴の学費が必要になることを見越して働き始めたらしい。
卵が食えるようになった俺は卵焼きから叩きこまれ、いっぱしの家事ができるように教育された。このころから兄貴と俺は全然違う行動パターンを示したらしく、兄貴は家事全般一切のことに対して協力をしなかった。何故か弟が兄貴の食事の面倒をみるという生活がその後しばらく続く。
(写真解説:2枚目の畑は縦に長い。花が咲いたころはツキノワグマの月の部分みたいな形だっただろうと想像している。かあちゃんは来年はさらに花を植える範囲を広げて島の人間を驚かせたいと考えているようだ。)
俺が11歳の頃、当時の小学生が受けさせられていたIQテストで俺と兄貴は高得点を取ったらしい。当時の俺の担任に「あんたが働きに出てこの子達がぐれたらあんたの責任だ」などという暴言を受けたらしい。
俺については見事にぐれてしまったのだが、それでもこの時からかあちゃんが働いて少しずつ金を貯めてくれたので兄貴は医学部を卒業し、俺はアメリカの大学院まで行かせてもらったことを考えると、当時の担任の大きなお世話は母の逆鱗に触れたようで、家事と仕事の両立を見事に成し遂げた。ちなみにIQに関しては俺の方が兄貴よりずいぶん高いことだけは俺の名誉のために申し添えて置く。
(写真解説:草を刈る前の5枚目の畑。5枚目の畑は道に隣接しているため、ここにトラクターを入れられるようにすることで農作業の効率化を図りたいらしい。高く生えているこの草は茅で、根っこが異常に固く草刈りの難易度は非常に高い。半分ぐらいのところで心が折れかけている俺をかあちゃんは「こいつあきらめるやろうか?」と見ていたらしい。かあちゃん、確かに半分ぐらい折れかかっちょったよ。)
かあちゃんはその後、大きな総合病院に転職し、総婦長に上り詰めることになる。ただしかあちゃんはあくまで金のために働いていたようで、仕事はともかく職場環境を嫌い抜いていた。
(写真解説:刈り終えた5枚目の畑。草がなくなるとようやくこの畑が一応は平たんな場所であることに気づかされる。去年の夏に切り拓いてから都度草刈りをしているかあちゃんには頭が下がる。こつは少しずつやることなんだそうだ。)
そしてかあちゃんは親父の肺がん発症とともに状況に合わせて職や働き方を変え、親父を支えることに専念した。親父が亡くなった時はさすがに憔悴していたが、電話するだけだと話すネタが無くなることが危惧されたため、以前俺が作っていた料理動画を再開して一緒に作ることにした。
部品代をかあちゃんに出させ、PCを組み立てて携帯電話で動画を録る方法を教え込み、毎週1回の打ち合わせで週1回の動画アップロードを現在まで継続している。まともにPCを触るのはかあちゃんにとってこの時からなのだが、新しいことに挑戦するのは苦にならないらしい。
(写真解説:一仕事終えた畑でクレソンとセリという野菜を収穫したかあちゃん。実験的に植えた植物が根付いて満足気である。)
親父の帰郷と共にほとんど知り合いのいない島に定住することになったかあちゃんは、過疎化が進むこの地に住む人たちが何ら対応をしないことを親父の存命中から危惧していたらしい。
昨年の7月に俺が久しぶりにウニを採りに帰った時、俺はかあちゃんに「他の誰もしないのであれば自分がするしかない。結果のわからないものに挑戦しようとする人間はそういるものではない」と言い、一転暇人と化したこの婆さんの諦めの悪さに再度火をつけることに成功した。
かあちゃんは去年の8月から完全に放棄地と化した上の写真の道を刈り始め、友人の協力もあって400mにわたって背丈以上に伸びた雑草というか荒地の道を切り拓いて他の道と完全につなげることに成功したのだ。
(写真解説:家に帰って食事と昼寝をしたら、先日刈った家の周りの雑草が丁度乾いていたのでたき火で燃やすことにした。道に散乱した雑草を集めていく。)
昨年の冬までに切り拓いた道に隣接する畑を何枚か開拓したかあちゃんは、今度は何の植物が売れるのか、どのような土地でどのような植物が育ちやすいのかについて調査を行い、今年、角島原産が疑われる蕎麦とかぼちゃ、ササゲなどの豆類を実験的に植えることにしているようだ。
(写真解説:家の納屋から表通りに抜ける道は昔からユリが自生している。この草を焼くと独特な匂いがしてかなり長いことくすぶるような焼け方をする。右下に写っているのはかつて米の保存に利用されていたものを利用してかまどに作り替えたものである。こちらは2代目の自作かまどである。)
昨年の冬、寒くてあまりやることがないかあちゃんは近所中の椿の種を拾い集め、椿油を自作することに成功した。売ろうと考えたが椿油などのように化粧品としての用途を持つ物には化粧品製造販売業という免許が必要らしい。
こちらについてはダメもとで免許取得を試みている。
(写真解説:表通りに面した初代の自作かまど。かあちゃんが毎日の散歩の後に友達とたき火をしたいというので去年帰省した時に増設した。これで家の前の道で刈った草を焼く。)
そして最近、かあちゃんは近所の道の駅での販売権を取得した。家の周りに自生しているミカンを含めた農作物を販売しようとしているのだ。
俺がすぐに実家に帰るわけにいかない現状、かあちゃんには申し訳ないが年金生活に甘んじてもらう暇はない。なんとか販路を拡大し、年間200万円程度の収益が上げられるようにしてもらう必要があるのだ。物価が安く、既に家があるので200万円あればなんとか生活できる水準になる。そこになんらかの職で得る収入を合わせれば生活は楽になると想定している。
(写真解説:ゴールデンウィーク前日のこの日、兄貴の家族が姪っこの習い事が終わってから帰省すると言い出したため、帰省予定時刻の23時頃まで起きていなくてはならなくなった。酒を飲まずにいようと思っていたのだが、親父の親友の漁師のおいちゃんが「まるご」という魚をくれたため、21時まで我慢して一杯やることにした。かあちゃんは19時には食事を終わらせるため、今日に限って食事は自分が作ることにした。
畑で採れたクレソンはそのままサラダにして、セリはかあちゃんがゴマの和え物にしてくれた。「まるご」はやはり漁師さんだからだろうか、絞め方がうまいのか格別にうまい感じがした。)
野菜を切るだけ切ってくれたかあちゃんは眠気に勝てず眠りに落ちた。ニンニクの芽と玉ねぎ、牛肉を塩コショウと瓦そばのツユで蒸し焼きにしてみた。半分ほど食ったところで兄貴が帰省し、残りの半分を兄貴に食われてしまった。
いつまで俺の作った料理を食うのだ、貴様はっ( ゚Д゚)
兄貴の嫁さんのお母さんも同行してきたため、あらかじめ敷いていた布団が足りずにこの日の俺はかつて親父が寝ていた母ちゃんの横に寝ることになった。
実家で飼っている2匹の猫がかあちゃんを守るように入れ替わり立ち代わり、かあちゃんの眠りを妨げないように静かに見張りをしている。これならしばらくはうちのネコ科小型動物がかあちゃんを守ってくれることだろう。
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プロジェクト「おれんち」
Schannel EvenID 36888/36874: 特定のサイトだけIEで開けない
先日仕事をしていて、どうにも解決ができないIEトラブルがあり、調査にいつもより時間を要したのでひょっとして同じように困っている人がいるのではないかと記事にしています。
IE系のトラブルシューティングは今度どこかにまとめるかもしませんが基本的には
1.閲覧履歴の削除をしてみる
2.IEをリセットする
3.IEの無効化・有効化をしてみる
などが有効になりますが、今回発生したトラブルはそれらをしてみても現象が一向に解決せずイベントビューアから特定のイベントを絞り込んで調査しなければなりませんでした。
困っている人が見ている可能性があるので、早速記事本文に入ります。
今回のケースはそのどちらにも当てはまるケースで、切り分けとしてユーザアカウントに依存していないか、PCに依存していないかという調査をしたところ、問題の発生しているPCから特定のサイトに接続した時に何をやってもエラーを排出するというものでした。
次に上述したIEの一通りのトラブルシューティングを行ったのですが、現象は一向に収まらず対応しているチーム内でPCの再イメージを行うか話し合っていたところだったのですが、そもそもこの系統の仕事をしている人間は原因を突き止めるということに異様な執着心(笑)を持っているため、原因を追究することになりました。
このようなかなり特異なエラーの場合、エラーログなどを見るのが定石になるので「コントロールパネル」の「管理ツール」、イベントビューアでエラーが発生した時間帯に起きているログを拾ったところ、記事のタイトルのエラーを発見したのでした。
どうやらSSL関係のエラーということはわかったのですが、調査はここからさらに難航し、Google検索の日本語でヒットした内容ではほとんどがサーバ側の問題として取り扱っており、今回のようにクライアント側の問題について言及しているものが見つからなかったのです。
最終的に、検索範囲を英語圏に変えてしばらく検索結果を見ていたところ、見つけたのがitTobyさんの記事ということになります。
そして記事をわからないところも含めて斜め読みした結果、PCの再イメージを決断したという形になります。
正直なところ、itTobyさんの記事は難解なのですべてを完全に理解したわけでは全くないのですが、再イメージを決断する決め手となったのは、「So therein lies the problem: Your server doesn't like any of the proposals from the client. (意訳:つまりここに問題があると言える:サーバ側がクライアントが提示している「提案:セキュアな接続手法:文中より追加」の全てが好みで無かったと言える)」というところです。
サーバ側で発生している問題なのであれば、サービスを提供する側として問題解決する必要があると思いますが、今回は特定のPCのみで発生している問題でしかもitTobyさんの記事によるとPC側からの証明書発行の要求(Certificate Signing Request:証明書署名要求)時点で問題が発生していることが原因である可能性が高いということになるからです。
自分で書いていてわかりにくかったのでまとめると
他のPCでは問題はない ⇒ 問題の発生しているPCでサーバからの証明書が発行をしてもらえない状況になってしまった ⇒ 他の同条件のサーバからの証明書発行でも問題がでる可能性が高い ⇒ 特定のサーバ用にマニュアルで証明書を発行しても再発の可能性が高い ⇒ 根本解決が望まれる ⇒ 手っ取り早く再イメージ(再インストール)した方が良い
という論理になります。
当然クライアント側でもどうしても環境を変えられない事情などがあると思いますので、その際は紹介した記事を熟読してことに当たっていただければと思います。
IE系のトラブルシューティングは今度どこかにまとめるかもしませんが基本的には
1.閲覧履歴の削除をしてみる
2.IEをリセットする
3.IEの無効化・有効化をしてみる
などが有効になりますが、今回発生したトラブルはそれらをしてみても現象が一向に解決せずイベントビューアから特定のイベントを絞り込んで調査しなければなりませんでした。
困っている人が見ている可能性があるので、早速記事本文に入ります。
<対象となる現象>
クライアント側のIEで特定のサイトが閲覧できなくなり、上記トラブルシューティングが有効でない場合で、イベントビューアで「Schannel EvenID 36888/36874」というエラーが発生している<対象とならない現象>
サーバ側で発生しているエラーの対処<推奨解決方法>
PCの再キッティング(再インストールなど)<未検証解決方法>
itTobyさんのこちらの記事(原文英語)にある、対応方法を取る。もしくはitTobyさんが紹介しているこちらの記事(原文英語:Microsoft TechNet記事)でSSL certificateをマニュアルで作成する。<記事ここから>
仕事でトラブルシューティングをしていると、どうしても超えられない壁を経験することがあります。僕の仕事上、基本的にはアプリケーションの問題であったりすれば開発に直結しているそれぞれのアプリケーションのサポート窓口にエスカレーションしたりすればよいのですが、そもそもユーザに提供しているPCのOSなどに問題があったり、サポート窓口が用意されていないような小規模のウェブサイトで問題が発生していると手詰まりとなってしまうのは良くある話です。今回のケースはそのどちらにも当てはまるケースで、切り分けとしてユーザアカウントに依存していないか、PCに依存していないかという調査をしたところ、問題の発生しているPCから特定のサイトに接続した時に何をやってもエラーを排出するというものでした。
次に上述したIEの一通りのトラブルシューティングを行ったのですが、現象は一向に収まらず対応しているチーム内でPCの再イメージを行うか話し合っていたところだったのですが、そもそもこの系統の仕事をしている人間は原因を突き止めるということに異様な執着心(笑)を持っているため、原因を追究することになりました。
このようなかなり特異なエラーの場合、エラーログなどを見るのが定石になるので「コントロールパネル」の「管理ツール」、イベントビューアでエラーが発生した時間帯に起きているログを拾ったところ、記事のタイトルのエラーを発見したのでした。
どうやらSSL関係のエラーということはわかったのですが、調査はここからさらに難航し、Google検索の日本語でヒットした内容ではほとんどがサーバ側の問題として取り扱っており、今回のようにクライアント側の問題について言及しているものが見つからなかったのです。
最終的に、検索範囲を英語圏に変えてしばらく検索結果を見ていたところ、見つけたのがitTobyさんの記事ということになります。
そして記事をわからないところも含めて斜め読みした結果、PCの再イメージを決断したという形になります。
正直なところ、itTobyさんの記事は難解なのですべてを完全に理解したわけでは全くないのですが、再イメージを決断する決め手となったのは、「So therein lies the problem: Your server doesn't like any of the proposals from the client. (意訳:つまりここに問題があると言える:サーバ側がクライアントが提示している「提案:セキュアな接続手法:文中より追加」の全てが好みで無かったと言える)」というところです。
サーバ側で発生している問題なのであれば、サービスを提供する側として問題解決する必要があると思いますが、今回は特定のPCのみで発生している問題でしかもitTobyさんの記事によるとPC側からの証明書発行の要求(Certificate Signing Request:証明書署名要求)時点で問題が発生していることが原因である可能性が高いということになるからです。
自分で書いていてわかりにくかったのでまとめると
他のPCでは問題はない ⇒ 問題の発生しているPCでサーバからの証明書が発行をしてもらえない状況になってしまった ⇒ 他の同条件のサーバからの証明書発行でも問題がでる可能性が高い ⇒ 特定のサーバ用にマニュアルで証明書を発行しても再発の可能性が高い ⇒ 根本解決が望まれる ⇒ 手っ取り早く再イメージ(再インストール)した方が良い
という論理になります。
当然クライアント側でもどうしても環境を変えられない事情などがあると思いますので、その際は紹介した記事を熟読してことに当たっていただければと思います。
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トラブルシューティング:ソフトウェア
2017年5月5日金曜日
実家帰省後日譚Ⅳ 3代目、親父の話
(For English users, there is an English entry: here)
この日は5月1日、親父の法事が前日に終わり、かあちゃんと高畑と呼ばれる元山でも一番高いところにある畑を耕すことにした。水がないわりに水はけが悪いこの土地は雨が降るとぬかるんで耕すのが大変になるのだが、連日の天気に恵まれて耕すには絶好のコンディションとなった。
親父の話を語り尽くすのは不可能にも思えるが、まず確実に言えることは死ぬ直前になるまで俺と親父は仲が悪かった。どのくらいか?と言われると喧嘩をして俺は親父の足の骨を柔道技で投げて折り、足が折れた直後に親父は俺のおでこに強烈なストレートを打ち込み1.5cmぐらいのたんこぶを作ったことがあるぐらいである。目の前で火花が散ったという形容がそのまま当てはまる程強烈なストレートだった。親父め。
ごくごく正直に、ひどく理不尽(と当時は思っていた)で、「こいつを殺さないと俺はいつか殺される」と真剣に考える程だった。
最近、かあちゃんと話していて兄貴は親父にはそれほど似ていなかったのである程度冷静になれていたが、俺はあまりにも親父に似すぎていて感情的になっていたように思うと言われたことがある。思い返してみると、俺と親父はかなり似ていたようだ。
喧嘩して以降、親父と話すことはほぼなくなったが、高校3年の4月時点で偏差値34だった俺が偏差値60ぐらいまで上げてほとんど退学になりかけていた高校を奇跡的に卒業し、さらに現役で地方の大学に受かった時の事、滑り止めだったので浪人したいと思っていたところ、親父から「頼むから受かった大学に行ってくれ」とお願いされたことがある。
今から思うと親父が俺に何かを頼んだのはこれを合わせて2回のみだった。
(写真解説:高畑の俺が草刈りをした後をついて、かあちゃんがトラクターで耕していく。トラクターの運転は親父か、こないだ俺に丸坊主を喰わせた叔父に頼んでやってもらっていたのだが、親父が亡くなった時にかあちゃんが俺に教えてほしいと頼み込み、自分でできるように練習したのである。67にして新しいことに挑戦し、とても満足気にトラクターを運転するかあちゃんである。)
親父とはほとんど話す機会もなく大学を卒業することになり、卒業式が終わって打ち上げに行く準備をしていた時、取り乱したかあちゃんから電話があった。かあちゃんは元々看護師で救急医療をしていたので、素手で心臓マッサージ(実際に開胸して心臓を直接マッサージするわけだ)していたほど肝が据わっているのだが、この時は本当に取り乱していて事態が理解できるまで20分はかかったと思う。曰く、親父がその日の朝、真っ黒い血を吐血し病院に行ったところ末期がんで余命半年だと言われたというのだ。
半年前に健康診断を受けた時には影一つなかったわけだから、半年で急激にガンは成長し、肺の5分の3を侵したことになる。医師が言うには半年生存率は5%を下回るはずだとのことだったので、「とうちゃん、あうとーっ (´゚д゚`)」な状態だった。
俺は兄貴に連絡し、即座に借りていたアパートを引き払い実家に戻るように命じた。
3日後に実家に帰った俺と兄貴はすぐに親父に会い、親父から「治療はしない」旨説明を受けた。そのまま叔父の2家族と温泉巡りをして、ちょっと早いお別れ会をした。
(写真解説:耕した翌朝の写真だが、耕し終わった畑である。途中でマシントラブルがあったため半分から先は俺が耕すことになったが、6月にもう一度耕してササゲという小豆に似た豆と小豆、黒豆を植えるそうである。かあちゃんは10数年間の間親父の看病の合間を縫ってササゲを小規模で実験的に植えてきたが、いよいよ畑全面を使って本格稼働することにしたのだ。手間がかからない小豆類は高齢化の進んだ島の爺婆でも作ることができ、ササゲは赤飯に最適というマーケティングを想定しているらしい。)
温泉をいくつも周り、最後に温泉宿で宴会をした時、ある程度宴もたけなわの状態で見つけた囲碁盤で当時覚えた囲碁をしようということになり、親父に囲碁ができるか聞いたところ打ったことはないができると言う。ここは積年の恨みを平和的に晴らす時が来たとばかりに水を飲んで正気に戻り、全身全霊を以て叩きのめしにかかったが、結果は盤の4分の3を占領されて俺が完敗することになった。
打ったことがない囲碁をどのように覚えたのか親父に聞いたところ、「仕事で出張している時、朝早くに目が覚めてしまい、眠れないことが多かったのでホテルで無料でもらえる新聞を端から端まで読んだがそれでも時間が余った。余ったので暇つぶしに新聞の囲碁欄を眺めていたら自然と身に付いた」という。つまりこれだけを見て覚えたと言うのだ。
思えば親父は恐ろしく頭がいい人だった。地頭の良さでは俺も相当に自信があるが、親父が逝った今、親父は絶対に敵わない存在になった。
そもそも親父は中学を留年している。理由は漁の手伝いで出席日数が足りなかったからだ。底引き網漁船の網が海底に引っかかった時に、水深15mの底まで船の碇を抱えて潜って網を解放するということをしていたのだ。話は逸れるが親父が手術をした時に、二つ対になっている臓器の一つが破裂したまま長期間放置された跡が見つかったと聞かされたことがある。当時同じ作業をしていた親戚のおいちゃんも「耳から血がでよった」と言っていたから、相当めちゃくちゃなことをしていたに違いない。
中学を4年かけて卒業した親父は、海洋関係の専門学校(名前を忘れたが)に入学し、主席で卒業してしまったらしい。その後当時日本でも有数の船舶関係の会社に入社し、船乗りになったそうだ。主席で卒業はしたが、問題を起こして何回もうちのじいちゃんは呼び出しをくらっていたらしい。その度にウニの瓶詰を持ってお詫びに行ったそうだが、問題を起こしたというのが「後輩が先輩にいじめられて学校を辞めそうになったのを止めるために、2学年全員を引き連れて学校を脱走した」とかそういう理由だったらしい。じいちゃんは人に何かを誇ることをしない人だったが、その時だけは妙に誇らしげに話していたのを思い出す。
船乗りだったころの親父は世界各国を回り、下の写真の腹巻(イースターエッグの下に敷いているのが親父の腹巻である。3人兄弟に近所のおばちゃんが作ってくれたらしい。今は俺のものである)に数百万入れた状態でマフィアみたいな人に追い回されたとか放蕩の限りを尽くしたらしい。当時の親父を知るかあちゃん曰く、本格的に宵越しの金を持たなかった人だったという。
親父の頭の良さを伝えられる別の逸話としては、東京でかあちゃんと会い、子ども(兄貴)が産まれた時に「あまりにかわいい」からと言って相当な収入を得ていた船会社を離れ、いろんな職を転々とした後(ホテルマンとか料理人とかをしたらしい)地元に近い小都市でとある電設会社に就職し、そこから電設関係の免許を全て取ってしまったことである。聞いたところによると当時全部の免許を持っている人間は日本に10人程度しかいなかったそうだ。
兄貴が高校生の時、丁度何かの試験準備をしていた親父は兄貴に頭を下げて三平方の定理なんかを教わっていた。めちゃくちゃにスパルタだった親父でも実の息子に頭を下げることができるのか、と驚嘆したことを覚えている。
(写真解説:畑を耕した後、家の横で倒れ掛かっていた木を切ったので薪にしてほしいと母ちゃんに頼まれていたので薪割りをした。
結構大変な作業なので、一日丸太一本のペースでの巻割り作業である。)
お別れ会をしたものの、親父をあきらめきれないのはかあちゃんだった。俺の兄貴は医者、俺はそこまで得意ではなかったもののPCで検索などが当時からできたので、民間療法で完治できるものはないか調べてほしいと言われ、キトサンと霊芝と言うサプリメントを見つけ出した。かあちゃんはそれから親父をうまいことだまくらかしてそれを一日3回15錠のペースで飲ませ始めた。おそらくは、親父も付き合ってやるぐらいはしたほうが良いと思ったに違いない。が、食後にそれを飲み続けるのは辛かっただろうと想像する。
それから半年後、他の治療を一切していなかった親父の肺から影が消えた。別に効くとか効かないとかはわからないが、実際に見せられたレントゲンからは影が見事に消えていた。
が、世の中そんなにうまく行くわけもない。その3か月後、やっぱり急速な速度で成長した肺がんが見つかり、再び余命半年と宣告されることになる。恥をかかされた医者の怨念に違いない。
一度治った時にはやはりうれしかったのだろう、親父はその時、治療をすることを決めた。放射線治療と化学療法を行った後、兄貴のつてでガンセンターに受診に行き、そして外科的に切除することにしたのだ。
医師免許を取得した兄貴は手術に立ち会うことが許された。兄の話では首を横から半分に切り、横隔膜まで半分に上半身を開けた状態で肺の5分の3を切除して手術は成功した。
手術成功後、当時の看護師の方に「おめでとうございます。これから夢は何かありますか?」と問われた親父は「漁師になる」と言って鼻で笑われたそうである。
それからしばらくして正社員を辞めはしたものの、持っている免許がないと仕事が受注できないためコンサルティング職みたいな名義貸しをすることで月給をもらえるようになった親父は、小都市に買っていた家を売りさばいた金で大型の船を800万円で買い、実際に一本釣り漁師を始めたのである。
肺を5分の3切除したものの、親父は若い頃測った肺活量で測定器を完全にひっくり返したため測定できる最大の8,000ccぐらいだったと言っていた。つまり単純計算で3,200ccになったわけだが、それでも常人以上の肺活量である。老いたとは言え体力は相当にあったのだろう、それから何度か死にかける度にかあちゃんの救命行為で復活した親父は実に術後10年余りにわたり一本釣りを続けた。親父が作った仕掛けは出来が良かったらしく、今でも親父の編み出したいくつかの仕掛けの作り方が角島の漁師達に引き継がれているそうである。
色々あって縁遠くなっていた実家のかあちゃんからある日、電話を受けた。その半年前に親父が危篤と言われて「死んでから言って来い」と言った俺に、この時ばかりはかあちゃんは泣きながら「お父さんの意識があるうちに、最後の別れをしてあげてくれ」と俺に頼み込んだ。5年ぶりぐらいか、親父に会った時どんな顔をして会ってよいかわからなかった俺に、親父は開口一番「かわっちょらんの。かあちゃん、のう、かわっちょらんのぉ。」と俺には見せたことがない満面の笑顔と共にのたまい、喧嘩になるだろうと想像していた俺の出鼻をくじいて涙腺を一撃で粉砕した。
今これを書いている時でさえ、なぜか涙が止まらない。親父は俺に「船をついでくれはしないか。」とお願いした。これが親父がたった2度、俺に頼みごとをした最後の1回である。東京で暮らしている俺には即断ができず、どこの家庭でも後継ぎが都合よく見つかるわけではないからと言って断った。寂しそうに笑った親父は、ひとしきり死後のことについて俺に指示を出し、俺はたった3時間の間に脱水してしまうのではないかと思うほど男泣きに泣き、そのまま東京にとんぼ返りした。
その1年後、朝5時に親父の訃報を聞いてその日に実家に戻った俺は、親父の穏やかな顔を見て泣きながらも何故かとても安心した。
先日実家に帰っていた時、かあちゃんに聞いたところによると俺が帰った後に、かあちゃんが親父に「お父さん、私はもう一人で生きていける。頑張るよ」と言った時に親父はこれまでにないほど喜んだらしい。そんな親父は生前、「やりたいことは全てやった」と言っていたらしい。
(写真解説:斧を振り下ろしたところ。金づちや斧で衝撃を受けると前腕が非常に鍛えられるのがわかった。どこかで役に立つのではないかと考えている。)
この日、薪を割った畑で採れたかあちゃん自家製のサニーレタスでサーモンが食いたいと言った俺にかあちゃんが造ってくれた料理が下の写真である。どっかから調達してきた筍と鳥の手羽先の煮物もうまかった。ビールの後ろに隠れているのが法事で使った二見饅頭である。小さいので盆に乗せやすいらしい。
家は3代目が潰すと言われることがあるが、船を継げなかった俺は親父に孝行できなかった分、かあちゃんが好きなことができるようにしたいと思っている。兄貴は医者になり、嫁さんの実家の近くで相談もなしに開業してしまいよったので、結局は俺が4代目になることになった。まあ初代が分家したほどの家である。次男が家長になるのも良いのではないだろうか。
親父が死んだ二日後、親父の葬式は俺の誕生日だった。俺の中で何かが芽をふいたように感じた。大工の叔父と話した時、「親父が全て正しかった」と言った俺に「お前ら親子は本当に・・・」と言って叔父は泣いた。
遠い将来、俺があっちに行ったとき俺はどんな顔をして親父に会うだろうか。この記事を書いている今日の朝、親父の葬式の夢を見た。法事をしたからだろうか。夢占いを見てみると、「独立の暗示」ということだそうだが、一体何から独立するというのだろうか。
親父に会った時、多分まずは土下座をして謝ろうと思う。親父の遺伝子を色濃く継ぎながら親父が死ぬまで何一つ成し遂げられなかったこと、そして船を継いであげられなかったのは後悔と言えば後悔している。
これからなんとか頑張って船を買い、親父の船の名前で「第二○○丸」と名付けられないかと考えている。親父の船の名前はかあちゃんと兄貴の長男の名前から取ったものである。仮に実現したとして、単なる自己満足だろうか。俺はそう思いたくない。
この日は5月1日、親父の法事が前日に終わり、かあちゃんと高畑と呼ばれる元山でも一番高いところにある畑を耕すことにした。水がないわりに水はけが悪いこの土地は雨が降るとぬかるんで耕すのが大変になるのだが、連日の天気に恵まれて耕すには絶好のコンディションとなった。
親父の話を語り尽くすのは不可能にも思えるが、まず確実に言えることは死ぬ直前になるまで俺と親父は仲が悪かった。どのくらいか?と言われると喧嘩をして俺は親父の足の骨を柔道技で投げて折り、足が折れた直後に親父は俺のおでこに強烈なストレートを打ち込み1.5cmぐらいのたんこぶを作ったことがあるぐらいである。目の前で火花が散ったという形容がそのまま当てはまる程強烈なストレートだった。親父め。
ごくごく正直に、ひどく理不尽(と当時は思っていた)で、「こいつを殺さないと俺はいつか殺される」と真剣に考える程だった。
最近、かあちゃんと話していて兄貴は親父にはそれほど似ていなかったのである程度冷静になれていたが、俺はあまりにも親父に似すぎていて感情的になっていたように思うと言われたことがある。思い返してみると、俺と親父はかなり似ていたようだ。
喧嘩して以降、親父と話すことはほぼなくなったが、高校3年の4月時点で偏差値34だった俺が偏差値60ぐらいまで上げてほとんど退学になりかけていた高校を奇跡的に卒業し、さらに現役で地方の大学に受かった時の事、滑り止めだったので浪人したいと思っていたところ、親父から「頼むから受かった大学に行ってくれ」とお願いされたことがある。
今から思うと親父が俺に何かを頼んだのはこれを合わせて2回のみだった。
(写真解説:高畑の俺が草刈りをした後をついて、かあちゃんがトラクターで耕していく。トラクターの運転は親父か、こないだ俺に丸坊主を喰わせた叔父に頼んでやってもらっていたのだが、親父が亡くなった時にかあちゃんが俺に教えてほしいと頼み込み、自分でできるように練習したのである。67にして新しいことに挑戦し、とても満足気にトラクターを運転するかあちゃんである。)
親父とはほとんど話す機会もなく大学を卒業することになり、卒業式が終わって打ち上げに行く準備をしていた時、取り乱したかあちゃんから電話があった。かあちゃんは元々看護師で救急医療をしていたので、素手で心臓マッサージ(実際に開胸して心臓を直接マッサージするわけだ)していたほど肝が据わっているのだが、この時は本当に取り乱していて事態が理解できるまで20分はかかったと思う。曰く、親父がその日の朝、真っ黒い血を吐血し病院に行ったところ末期がんで余命半年だと言われたというのだ。
半年前に健康診断を受けた時には影一つなかったわけだから、半年で急激にガンは成長し、肺の5分の3を侵したことになる。医師が言うには半年生存率は5%を下回るはずだとのことだったので、「とうちゃん、あうとーっ (´゚д゚`)」な状態だった。
俺は兄貴に連絡し、即座に借りていたアパートを引き払い実家に戻るように命じた。
3日後に実家に帰った俺と兄貴はすぐに親父に会い、親父から「治療はしない」旨説明を受けた。そのまま叔父の2家族と温泉巡りをして、ちょっと早いお別れ会をした。
(写真解説:耕した翌朝の写真だが、耕し終わった畑である。途中でマシントラブルがあったため半分から先は俺が耕すことになったが、6月にもう一度耕してササゲという小豆に似た豆と小豆、黒豆を植えるそうである。かあちゃんは10数年間の間親父の看病の合間を縫ってササゲを小規模で実験的に植えてきたが、いよいよ畑全面を使って本格稼働することにしたのだ。手間がかからない小豆類は高齢化の進んだ島の爺婆でも作ることができ、ササゲは赤飯に最適というマーケティングを想定しているらしい。)
温泉をいくつも周り、最後に温泉宿で宴会をした時、ある程度宴もたけなわの状態で見つけた囲碁盤で当時覚えた囲碁をしようということになり、親父に囲碁ができるか聞いたところ打ったことはないができると言う。ここは積年の恨みを平和的に晴らす時が来たとばかりに水を飲んで正気に戻り、全身全霊を以て叩きのめしにかかったが、結果は盤の4分の3を占領されて俺が完敗することになった。
打ったことがない囲碁をどのように覚えたのか親父に聞いたところ、「仕事で出張している時、朝早くに目が覚めてしまい、眠れないことが多かったのでホテルで無料でもらえる新聞を端から端まで読んだがそれでも時間が余った。余ったので暇つぶしに新聞の囲碁欄を眺めていたら自然と身に付いた」という。つまりこれだけを見て覚えたと言うのだ。
思えば親父は恐ろしく頭がいい人だった。地頭の良さでは俺も相当に自信があるが、親父が逝った今、親父は絶対に敵わない存在になった。
そもそも親父は中学を留年している。理由は漁の手伝いで出席日数が足りなかったからだ。底引き網漁船の網が海底に引っかかった時に、水深15mの底まで船の碇を抱えて潜って網を解放するということをしていたのだ。話は逸れるが親父が手術をした時に、二つ対になっている臓器の一つが破裂したまま長期間放置された跡が見つかったと聞かされたことがある。当時同じ作業をしていた親戚のおいちゃんも「耳から血がでよった」と言っていたから、相当めちゃくちゃなことをしていたに違いない。
中学を4年かけて卒業した親父は、海洋関係の専門学校(名前を忘れたが)に入学し、主席で卒業してしまったらしい。その後当時日本でも有数の船舶関係の会社に入社し、船乗りになったそうだ。主席で卒業はしたが、問題を起こして何回もうちのじいちゃんは呼び出しをくらっていたらしい。その度にウニの瓶詰を持ってお詫びに行ったそうだが、問題を起こしたというのが「後輩が先輩にいじめられて学校を辞めそうになったのを止めるために、2学年全員を引き連れて学校を脱走した」とかそういう理由だったらしい。じいちゃんは人に何かを誇ることをしない人だったが、その時だけは妙に誇らしげに話していたのを思い出す。
船乗りだったころの親父は世界各国を回り、下の写真の腹巻(イースターエッグの下に敷いているのが親父の腹巻である。3人兄弟に近所のおばちゃんが作ってくれたらしい。今は俺のものである)に数百万入れた状態でマフィアみたいな人に追い回されたとか放蕩の限りを尽くしたらしい。当時の親父を知るかあちゃん曰く、本格的に宵越しの金を持たなかった人だったという。
親父の頭の良さを伝えられる別の逸話としては、東京でかあちゃんと会い、子ども(兄貴)が産まれた時に「あまりにかわいい」からと言って相当な収入を得ていた船会社を離れ、いろんな職を転々とした後(ホテルマンとか料理人とかをしたらしい)地元に近い小都市でとある電設会社に就職し、そこから電設関係の免許を全て取ってしまったことである。聞いたところによると当時全部の免許を持っている人間は日本に10人程度しかいなかったそうだ。
兄貴が高校生の時、丁度何かの試験準備をしていた親父は兄貴に頭を下げて三平方の定理なんかを教わっていた。めちゃくちゃにスパルタだった親父でも実の息子に頭を下げることができるのか、と驚嘆したことを覚えている。
(写真解説:畑を耕した後、家の横で倒れ掛かっていた木を切ったので薪にしてほしいと母ちゃんに頼まれていたので薪割りをした。
結構大変な作業なので、一日丸太一本のペースでの巻割り作業である。)
お別れ会をしたものの、親父をあきらめきれないのはかあちゃんだった。俺の兄貴は医者、俺はそこまで得意ではなかったもののPCで検索などが当時からできたので、民間療法で完治できるものはないか調べてほしいと言われ、キトサンと霊芝と言うサプリメントを見つけ出した。かあちゃんはそれから親父をうまいことだまくらかしてそれを一日3回15錠のペースで飲ませ始めた。おそらくは、親父も付き合ってやるぐらいはしたほうが良いと思ったに違いない。が、食後にそれを飲み続けるのは辛かっただろうと想像する。
それから半年後、他の治療を一切していなかった親父の肺から影が消えた。別に効くとか効かないとかはわからないが、実際に見せられたレントゲンからは影が見事に消えていた。
が、世の中そんなにうまく行くわけもない。その3か月後、やっぱり急速な速度で成長した肺がんが見つかり、再び余命半年と宣告されることになる。恥をかかされた医者の怨念に違いない。
一度治った時にはやはりうれしかったのだろう、親父はその時、治療をすることを決めた。放射線治療と化学療法を行った後、兄貴のつてでガンセンターに受診に行き、そして外科的に切除することにしたのだ。
医師免許を取得した兄貴は手術に立ち会うことが許された。兄の話では首を横から半分に切り、横隔膜まで半分に上半身を開けた状態で肺の5分の3を切除して手術は成功した。
手術成功後、当時の看護師の方に「おめでとうございます。これから夢は何かありますか?」と問われた親父は「漁師になる」と言って鼻で笑われたそうである。
それからしばらくして正社員を辞めはしたものの、持っている免許がないと仕事が受注できないためコンサルティング職みたいな名義貸しをすることで月給をもらえるようになった親父は、小都市に買っていた家を売りさばいた金で大型の船を800万円で買い、実際に一本釣り漁師を始めたのである。
肺を5分の3切除したものの、親父は若い頃測った肺活量で測定器を完全にひっくり返したため測定できる最大の8,000ccぐらいだったと言っていた。つまり単純計算で3,200ccになったわけだが、それでも常人以上の肺活量である。老いたとは言え体力は相当にあったのだろう、それから何度か死にかける度にかあちゃんの救命行為で復活した親父は実に術後10年余りにわたり一本釣りを続けた。親父が作った仕掛けは出来が良かったらしく、今でも親父の編み出したいくつかの仕掛けの作り方が角島の漁師達に引き継がれているそうである。
色々あって縁遠くなっていた実家のかあちゃんからある日、電話を受けた。その半年前に親父が危篤と言われて「死んでから言って来い」と言った俺に、この時ばかりはかあちゃんは泣きながら「お父さんの意識があるうちに、最後の別れをしてあげてくれ」と俺に頼み込んだ。5年ぶりぐらいか、親父に会った時どんな顔をして会ってよいかわからなかった俺に、親父は開口一番「かわっちょらんの。かあちゃん、のう、かわっちょらんのぉ。」と俺には見せたことがない満面の笑顔と共にのたまい、喧嘩になるだろうと想像していた俺の出鼻をくじいて涙腺を一撃で粉砕した。
今これを書いている時でさえ、なぜか涙が止まらない。親父は俺に「船をついでくれはしないか。」とお願いした。これが親父がたった2度、俺に頼みごとをした最後の1回である。東京で暮らしている俺には即断ができず、どこの家庭でも後継ぎが都合よく見つかるわけではないからと言って断った。寂しそうに笑った親父は、ひとしきり死後のことについて俺に指示を出し、俺はたった3時間の間に脱水してしまうのではないかと思うほど男泣きに泣き、そのまま東京にとんぼ返りした。
その1年後、朝5時に親父の訃報を聞いてその日に実家に戻った俺は、親父の穏やかな顔を見て泣きながらも何故かとても安心した。
先日実家に帰っていた時、かあちゃんに聞いたところによると俺が帰った後に、かあちゃんが親父に「お父さん、私はもう一人で生きていける。頑張るよ」と言った時に親父はこれまでにないほど喜んだらしい。そんな親父は生前、「やりたいことは全てやった」と言っていたらしい。
(写真解説:斧を振り下ろしたところ。金づちや斧で衝撃を受けると前腕が非常に鍛えられるのがわかった。どこかで役に立つのではないかと考えている。)
この日、薪を割った畑で採れたかあちゃん自家製のサニーレタスでサーモンが食いたいと言った俺にかあちゃんが造ってくれた料理が下の写真である。どっかから調達してきた筍と鳥の手羽先の煮物もうまかった。ビールの後ろに隠れているのが法事で使った二見饅頭である。小さいので盆に乗せやすいらしい。
家は3代目が潰すと言われることがあるが、船を継げなかった俺は親父に孝行できなかった分、かあちゃんが好きなことができるようにしたいと思っている。兄貴は医者になり、嫁さんの実家の近くで相談もなしに開業してしまいよったので、結局は俺が4代目になることになった。まあ初代が分家したほどの家である。次男が家長になるのも良いのではないだろうか。
親父が死んだ二日後、親父の葬式は俺の誕生日だった。俺の中で何かが芽をふいたように感じた。大工の叔父と話した時、「親父が全て正しかった」と言った俺に「お前ら親子は本当に・・・」と言って叔父は泣いた。
遠い将来、俺があっちに行ったとき俺はどんな顔をして親父に会うだろうか。この記事を書いている今日の朝、親父の葬式の夢を見た。法事をしたからだろうか。夢占いを見てみると、「独立の暗示」ということだそうだが、一体何から独立するというのだろうか。
親父に会った時、多分まずは土下座をして謝ろうと思う。親父の遺伝子を色濃く継ぎながら親父が死ぬまで何一つ成し遂げられなかったこと、そして船を継いであげられなかったのは後悔と言えば後悔している。
これからなんとか頑張って船を買い、親父の船の名前で「第二○○丸」と名付けられないかと考えている。親父の船の名前はかあちゃんと兄貴の長男の名前から取ったものである。仮に実現したとして、単なる自己満足だろうか。俺はそう思いたくない。
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2017年5月4日木曜日
実家帰省後日譚Ⅲ 2代目のじいちゃんの話
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今日実家から東京に戻ってきた。・・・ので、タイトルを帰省中から後日譚に変えてみた。
今日は人に会いたいと思っていたが予定が合わず、朝飯を食ってから何も食わずに帰ってきたので酒を飲んでいる。運命というものが本当にあるのなら、その日その日に起きることぐらいで大筋が変わることもなかろう。帰ってきて体重を測ったところそこまで太っていなかったので少し安心している。疲れやら何やら色々溜まっているので明日は色々な整理をして7月までに備えようと考えている。
下の写真は4月29日に撮ったものだ。前日の続きで畑までの道のりを草を刈っていく。
2代目のじいちゃんは実際に俺が大人になるまで生きていた。「○○っ子」という言葉を俺に当てはめるなら、俺はじいちゃんっ子だ。ばあちゃんっ子が多い中なぜか?というと、俺の婆さんは俺の母親だけには異様に優しかったが、孫には異常に厳しい・・・というか子どもが嫌いだったらしく、ある程度大きくなるまでいつも怒られていたからだ。しかも婆さんは底引き網漁船団の棟梁の家に生まれ、長男が大きくなるまで櫓かき(ボートのオールと言えばわかりやすいだろうか)という長男が行うべき仕事をさせられていた人だ。実の孫に「だから子どもは嫌いだ」といつも言ってしまうぐらい厳しいというか理不尽な人だった。
(写真解説:上の写真はよく見ると右にカーブしていて、右に曲がった角から撮ったのが下の写真である。ここからは現在も唯一、近辺では米を作っている田んぼがあり、その田んぼの下を道が通っている。ここまでが大体80mぐらい?でここから畑まで大体同じぐらいである。)
ちなみに婆さんは俺の高校の卒業式の日にあの世に行った。総合してみるととても優しい、女性的な面を持った人だったように思う。口が異常に悪かったが、今になって思い返すと躾をしてくれているつもりだったのだと思う。
話が逸れた、爺さんの話だった。家は親父含めた3人兄弟だったので、いとこが7人おり(うち2人はかなり遅くに生まれたが)夏になると5人をいつも船に乗せて雑魚釣りに連れて行ってくれていた。俺が12歳ぐらいになった時にはウニ採り・ウニ割り要員として手伝うことになるのだが、子どもだけを預けられてもいつもニコニコ笑って子どもの相手をしてくれていた。
(写真解説:田んぼの横の道の写真。結構草が生えている。写真の真ん中に見えているえぐれているところが道の右側である。)
家のじいちゃんは酒呑みではあったが、朝と昼に一杯、夜に三杯と決まった毎日を刻むような人だった。ひい爺さんのように島中の道と言う道で酔いつぶれて寝てしまうような人ではなかったのは第二次大戦中に軍人をしていたからだろうか。
情報兵の伍長をしていたとじいちゃんの口から聞いている。本気で酔っぱらうと軍歌を歌うのが常だった。夜にはいつも酔っ払いながら将棋の相手をしてくれていた。
昼には釣れた雑魚を船の上で器用に小さなまな板で捌いて刺身を作り、船の船底に隠していた焼酎と温かい麦茶で一杯するのが楽しみのようだった。その辺にある板に乗せた刺身に醤油をかけて食べるおにぎりは格別にうまかったのを今でも覚えている。
戦争の話はあまりしたく無いようだったが、いつも婆さんがいる前で大戦で行った中国でプロポーズして振られた話をしていた。当時の状況を考えると慰安婦だった人にプロポーズしたのだろうと思うのだが、差別とかせずに国際結婚しかけてしまう爺ちゃんはかなりファンキーなジジイだった。というか、素朴さが行き過ぎていたのだろうと思う。
(写真解説:草を刈った道。昔あぜ道だったところは茅が生えやすく、しかもところどころ直径10cmぐらいの木が生えているところを母親が開拓したのだそうである。改めてみると緑のモザイクにしか見えないが、これでも道である。)
俺がある程度の歳、12歳ぐらいになると7月の大潮のタイミングから爺ちゃんチに隔離され、ウニ採りを手伝わされるのが毎年の恒例だった。これは俺が高校を卒業して大学に行くようになっても続いた。いとこと俺と、爺ちゃんとで5・6キロぐらいのウニを1日に採っていた。
ウニを採るのは楽しいのだが、割って身を採るのが大変な作業で夜中の2時から4人でNHKのラジオを聞きながらひたすら朝の7時までウニのシゴ(方言だと思うが「準備」という意味)をさせられていた。
今から考えると1日6万円ぐらいの稼ぎだったように思う。このぐらいの歳から毎晩酒を飲み、タバコを吸いながら爺ちゃんと一緒に酔っぱらっていた。毎晩のように毎日の3杯が5杯くらいになり、説教が始まるのだが、俺は婆さん譲りの負けん気でいつも爺ちゃんを言い負かせて爺ちゃんはいつもショボーンとしながら寝ていた。翌日、いつもと変わらずに朝飯に皮を剥いた(歯が無かったので皮があると噛み切れなかったようだ)トマトと焼酎をすすりながらいとこと俺がうに丼(半年ぐらい冷凍されていたイカと採れたてのウニの丼ぶり)を食べるのを楽しそうに見ていた。
(写真解説:朝刈った道。刈るとかろうじて道だとわかるぐらいだと思うが、歩くとわかる、立派な道である。)
うちの母に言わせると大戦ですべてが狂ったとのことだが、ひい爺さんの石工の棟梁としての仕事を爺ちゃんが継ぐことはなかった。爺ちゃんは一生漁師として生きて、亡くなった。
うちが分家になった当主の中で、唯一恐ろしくまともな人生(大戦を除いて)を過ごした爺さんだったと言えるだろう。じいちゃんがすごかったのは、船の上から鉾でさざえやアワビを採るのが異常に上手かったということと、普段自分ができるとは一言も言わなかったが石工としての腕は非常に高かっただろうことだ。
俺の親父が島の仕事で、ひい爺さんとじいちゃんが組んだと思われる石垣が邪魔になり、若い人に崩させて後で組み直そうとしたところ、5人がかりで半日かけても戻せなくなり、困ってじいちゃんを連れて行ったそうである。
じいちゃんは崩れた石垣を一瞥し、何も言わずに30分程で石を組み上げ、大人が本気でストンピングしてもびくともしないように組み直したそうである。
(写真解説:爺ちゃんが組んだ石垣。農道のそこかしこに組んであり、どうやっても微動だにしない。20年ぶりに開拓したこの道も、爺ちゃんの石垣がしっかりと守っていた。)
俺の爺ちゃんは俺の大学院の入学式(式というものはなかったが)の日に違う世界に旅立った。きっとあっちでも三食決まった焼酎を飲んでいるのだろう。俺が遠い将来あっちに行ったら、きっと日課を変えて5杯飲んで軍歌を歌ってくれると思う。
爺さんが入院することになった時、爺さんは肥を畑に運んでいる最中にかついでいる棒で肩の骨が折れて前立腺ガンが骨に転移していたことが発覚し、そのまま病院で亡くなった。爺さんはネタになりにくい、ブロガー泣かせの普通の人だったが普通のことを普通にできる、というか普通に激痛すらモノともせずに続けられる精神力の持ち主だったのだと思う。
俺が大学院に行くために渡米する時、爺さんを見舞いに行った。俺はこれが今生の別れだと思っていたが、帰国してしばらくした時、俺が駅に行った時に同じく見舞いに行っていた兄貴にこう言ったそうである。「『あいつ』とはこれが最後になるなぁ・・・・」
誰も爺さんが末期がんとは言わなかったのに、爺さんは自分の死期を悟っていたようである。爺ちゃん、俺が行く時は美味い魚釣って行くから一緒に焼酎呑もうな。
今日実家から東京に戻ってきた。・・・ので、タイトルを帰省中から後日譚に変えてみた。
今日は人に会いたいと思っていたが予定が合わず、朝飯を食ってから何も食わずに帰ってきたので酒を飲んでいる。運命というものが本当にあるのなら、その日その日に起きることぐらいで大筋が変わることもなかろう。帰ってきて体重を測ったところそこまで太っていなかったので少し安心している。疲れやら何やら色々溜まっているので明日は色々な整理をして7月までに備えようと考えている。
下の写真は4月29日に撮ったものだ。前日の続きで畑までの道のりを草を刈っていく。
2代目のじいちゃんは実際に俺が大人になるまで生きていた。「○○っ子」という言葉を俺に当てはめるなら、俺はじいちゃんっ子だ。ばあちゃんっ子が多い中なぜか?というと、俺の婆さんは俺の母親だけには異様に優しかったが、孫には異常に厳しい・・・というか子どもが嫌いだったらしく、ある程度大きくなるまでいつも怒られていたからだ。しかも婆さんは底引き網漁船団の棟梁の家に生まれ、長男が大きくなるまで櫓かき(ボートのオールと言えばわかりやすいだろうか)という長男が行うべき仕事をさせられていた人だ。実の孫に「だから子どもは嫌いだ」といつも言ってしまうぐらい厳しいというか理不尽な人だった。
(写真解説:上の写真はよく見ると右にカーブしていて、右に曲がった角から撮ったのが下の写真である。ここからは現在も唯一、近辺では米を作っている田んぼがあり、その田んぼの下を道が通っている。ここまでが大体80mぐらい?でここから畑まで大体同じぐらいである。)
ちなみに婆さんは俺の高校の卒業式の日にあの世に行った。総合してみるととても優しい、女性的な面を持った人だったように思う。口が異常に悪かったが、今になって思い返すと躾をしてくれているつもりだったのだと思う。
話が逸れた、爺さんの話だった。家は親父含めた3人兄弟だったので、いとこが7人おり(うち2人はかなり遅くに生まれたが)夏になると5人をいつも船に乗せて雑魚釣りに連れて行ってくれていた。俺が12歳ぐらいになった時にはウニ採り・ウニ割り要員として手伝うことになるのだが、子どもだけを預けられてもいつもニコニコ笑って子どもの相手をしてくれていた。
(写真解説:田んぼの横の道の写真。結構草が生えている。写真の真ん中に見えているえぐれているところが道の右側である。)
家のじいちゃんは酒呑みではあったが、朝と昼に一杯、夜に三杯と決まった毎日を刻むような人だった。ひい爺さんのように島中の道と言う道で酔いつぶれて寝てしまうような人ではなかったのは第二次大戦中に軍人をしていたからだろうか。
情報兵の伍長をしていたとじいちゃんの口から聞いている。本気で酔っぱらうと軍歌を歌うのが常だった。夜にはいつも酔っ払いながら将棋の相手をしてくれていた。
昼には釣れた雑魚を船の上で器用に小さなまな板で捌いて刺身を作り、船の船底に隠していた焼酎と温かい麦茶で一杯するのが楽しみのようだった。その辺にある板に乗せた刺身に醤油をかけて食べるおにぎりは格別にうまかったのを今でも覚えている。
戦争の話はあまりしたく無いようだったが、いつも婆さんがいる前で大戦で行った中国でプロポーズして振られた話をしていた。当時の状況を考えると慰安婦だった人にプロポーズしたのだろうと思うのだが、差別とかせずに国際結婚しかけてしまう爺ちゃんはかなりファンキーなジジイだった。というか、素朴さが行き過ぎていたのだろうと思う。
(写真解説:草を刈った道。昔あぜ道だったところは茅が生えやすく、しかもところどころ直径10cmぐらいの木が生えているところを母親が開拓したのだそうである。改めてみると緑のモザイクにしか見えないが、これでも道である。)
俺がある程度の歳、12歳ぐらいになると7月の大潮のタイミングから爺ちゃんチに隔離され、ウニ採りを手伝わされるのが毎年の恒例だった。これは俺が高校を卒業して大学に行くようになっても続いた。いとこと俺と、爺ちゃんとで5・6キロぐらいのウニを1日に採っていた。
ウニを採るのは楽しいのだが、割って身を採るのが大変な作業で夜中の2時から4人でNHKのラジオを聞きながらひたすら朝の7時までウニのシゴ(方言だと思うが「準備」という意味)をさせられていた。
今から考えると1日6万円ぐらいの稼ぎだったように思う。このぐらいの歳から毎晩酒を飲み、タバコを吸いながら爺ちゃんと一緒に酔っぱらっていた。毎晩のように毎日の3杯が5杯くらいになり、説教が始まるのだが、俺は婆さん譲りの負けん気でいつも爺ちゃんを言い負かせて爺ちゃんはいつもショボーンとしながら寝ていた。翌日、いつもと変わらずに朝飯に皮を剥いた(歯が無かったので皮があると噛み切れなかったようだ)トマトと焼酎をすすりながらいとこと俺がうに丼(半年ぐらい冷凍されていたイカと採れたてのウニの丼ぶり)を食べるのを楽しそうに見ていた。
(写真解説:朝刈った道。刈るとかろうじて道だとわかるぐらいだと思うが、歩くとわかる、立派な道である。)
うちの母に言わせると大戦ですべてが狂ったとのことだが、ひい爺さんの石工の棟梁としての仕事を爺ちゃんが継ぐことはなかった。爺ちゃんは一生漁師として生きて、亡くなった。
うちが分家になった当主の中で、唯一恐ろしくまともな人生(大戦を除いて)を過ごした爺さんだったと言えるだろう。じいちゃんがすごかったのは、船の上から鉾でさざえやアワビを採るのが異常に上手かったということと、普段自分ができるとは一言も言わなかったが石工としての腕は非常に高かっただろうことだ。
俺の親父が島の仕事で、ひい爺さんとじいちゃんが組んだと思われる石垣が邪魔になり、若い人に崩させて後で組み直そうとしたところ、5人がかりで半日かけても戻せなくなり、困ってじいちゃんを連れて行ったそうである。
じいちゃんは崩れた石垣を一瞥し、何も言わずに30分程で石を組み上げ、大人が本気でストンピングしてもびくともしないように組み直したそうである。
(写真解説:爺ちゃんが組んだ石垣。農道のそこかしこに組んであり、どうやっても微動だにしない。20年ぶりに開拓したこの道も、爺ちゃんの石垣がしっかりと守っていた。)
俺の爺ちゃんは俺の大学院の入学式(式というものはなかったが)の日に違う世界に旅立った。きっとあっちでも三食決まった焼酎を飲んでいるのだろう。俺が遠い将来あっちに行ったら、きっと日課を変えて5杯飲んで軍歌を歌ってくれると思う。
爺さんが入院することになった時、爺さんは肥を畑に運んでいる最中にかついでいる棒で肩の骨が折れて前立腺ガンが骨に転移していたことが発覚し、そのまま病院で亡くなった。爺さんはネタになりにくい、ブロガー泣かせの普通の人だったが普通のことを普通にできる、というか普通に激痛すらモノともせずに続けられる精神力の持ち主だったのだと思う。
俺が大学院に行くために渡米する時、爺さんを見舞いに行った。俺はこれが今生の別れだと思っていたが、帰国してしばらくした時、俺が駅に行った時に同じく見舞いに行っていた兄貴にこう言ったそうである。「『あいつ』とはこれが最後になるなぁ・・・・」
誰も爺さんが末期がんとは言わなかったのに、爺さんは自分の死期を悟っていたようである。爺ちゃん、俺が行く時は美味い魚釣って行くから一緒に焼酎呑もうな。
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2017年5月2日火曜日
実家帰省中Ⅱ 俺んち初代のお話
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今日は母が刈っている畑へと続く道の草刈りである。母曰く、4月の中旬まで母が肺の手術を受ける前には一回刈っていた道が下旬までの雨で一気に伸びたとのことだ。
大根の花というが、とてもきれいな花をつけたこの草が草刈り機に絡み付いてなかなか厄介である。
俺の実家は俺で4代目となる。初代、つまり俺のひい爺さんは角島でも結構な大地主の次男に生まれたと聞いている。そして、この地方なのかどうなのか、大体次男以降は他の家の養子にもらわれるか、寺に出家するのが慣例だったそうで、御多分に漏れずうちのひい爺さんも他の家に養子になったそうだ。
(写真解説:うちの畑へと続く道。全体が完全な放棄地になった段々畑というか、かつては田んぼが連なる立派な土地だったこの放棄地の主な農道を、昨年の夏に母がすべて切り拓いた。)
しかし、うちのひい爺さんは俺を実際に知っている人ならわかるかもしれないが、俺の数倍放蕩息子だったらしい。どのくらいめちゃくちゃだったかは今は知る由もないが、ただ一つ確実に言えるのは養子先から追い返されるほどだったということである。
(写真解説:上の写真の林を抜けると、今度は50メートルほどの直線の道が続く、ここも当然、家の土地ではなく単なる農道である。遠くに見えるのはうちの母ちゃんである。)
そうやって考えてみればある意味幸運だったのかもしれないが、通常はほとんど行われなかった「分家」ということをして、本家の土地を分けてもらってうちの実家は始まった。今でも本家と分家として角島では認知されていて、行くところに行くとそのように呼ばれる。
(写真解説:上の写真の道を刈った後。今日はここまでで家に帰ってサザエを拾いに帰ることにした。前を歩くのはうちの母ちゃん。道が拓けて初めてここが道であることに気付くほどだが、かあちゃんが道を拓いた当初は母ちゃんの横にそびえている茅の草が全体を覆っていたらしい。
母ちゃんは今日までの道を3日で拓いたらしい。70近い婆さんの体力で行ったとはとても思えない。俺も手伝ったとき、同じ背丈の草を10メートル刈るのに2時間かかり、めまいがするほど疲れたのだ。)
が、どちらかというと家の父親の息子としてだったり、兄貴の弟として呼ばれることの方が多い。これは今回のシリーズで少しずつわかってくると思う。
(写真解説:刈った後の林の前の道。)
ひい爺さんは前の投稿でも書いたが石工というか土方の棟梁のようなことをしていたらしく、相当に金回りがよかったそうだ。良かったそうだが、ほとんどを酒で飲んでしまったとも聞かされている。
(写真解説:草を刈った後の出入り口の道。草を刈ると本当にきれいに見える。)
小さいころから聞かされているのだが、角島にある井戸の3分の2はひい爺さんが掘ったものだということだ。8割がた、と聞いているが井戸は昔からあるだろうから少し話が盛られていると思うので、少し控えめに書いている。
(写真解説:この日も潮が引いた時を見計らってサザエを探しに出た。何か落ちてないか探している母ちゃん。)
話半分というのはそこだけで、金回りが良かったがほとんどを酒で飲んでしまったと言うのは実際の話のようである。ひい爺さんは俺の父が17歳の時に、リアルに酒の飲みすぎで死んだと聞かされている。何故酒で死んだとわかるかと言われると、当時の医者に酒をこれ以上飲むと死ぬるぞと脅されていたにも関わらず、死後、牛小屋の天井から一升瓶が山のように隠されているのが発見されたと聞かされているからである。
(写真解説:どっかのおばちゃん。向こうは俺のことがわかるらしいが、俺にはどこの誰かもわからない。説明を聞いてもまるっきり頭に入ってこない。)
それと、ひい爺さんがどこまでめちゃくちゃだったかは、実際に俺が継ぐことになっている土地からも見て取れる。俺が引き継ぐ土地はほとんどが僻地で、いろんなところに飛び地になっている上に出入り口を本家のものとして抑えられていたのである。理由は「酒のために売ってしまいそうだ」からだったそうである。出入り口が抑えられていると土地には値がつけられなくなるからそういうことをしたらしい。
まったく信用されていなかったのが良くわかる。そんな人が家の初代である。俺がこんな性格をしているのもある意味しょうがないのかもしれない。
(写真解説:あまり金もないし土地もすたれているが、漁権を持っているので季節に合わせていろいろなものがとれる。この日は俺に丸坊主を食らわせた叔父ではなく、大工をしている別の叔父が「カラス貝が食いたいから採って来てくれたら新しく作ったベランダの足台を引き換えに作ってやる」と言われてカラス貝を採った。後で文句を言われないように大きいものだけを選別して籠に刺さっている「ガゼ引き」で引っ付いている岩から剥がすようにして採るのである。結構な時間をかけて採ったので叔父貴も喜んでくれていた。)
うちの家はひい爺さんの次男、俺の大叔父が初めて建てた家だそうである。そして2軒目を建てて壊れて怒られたので大叔父は大工を辞め、放蕩の限りを尽くしたそうである。そちらの家系はやくざもいるとかいないとかと聞いている。まともなのは女性だけだそうだ。
(写真解説:家に帰ると猫が家に面した道路を見張っている。新しくできたベランダも物珍しいのだろうと思う。)
ひい爺さんがとんでもない人だったからか、うちの家系の大叔父側はほとんどがやくざ者で消息不明になっているらしい。今母親が相続を俺にまとめてくれようとしているらしいが、ほとんどが消息不明になっているので大変だそうである。ちなみに大叔父はうちの爺様が相続をまとめようと話をした時に「金をよこせ」と言ってご破算になったらしい。
(写真解説:うちのかあちゃんが大工の叔父貴に頼んで造ってもらったベランダである。かあちゃんこれが出来てとてもご満悦だ。ついでに屋根がぐねぐね歪んでいたのも下から支えて直してもらった。)
金にしても二束三文にもならない土地とぐれた大叔父がほとんど素人で造った家なのだが、自然に恵まれて食うものが都会では考えられないぐらいうまいのはありがたいことだと思う。この日のメニューは親父の同級生でとてもよくしてくれる漁師のおいちゃんがくれたヒラマサの刺身と海岸で採れた貝の煮物、家で採れた野菜と料理動画のために作ったレンコンのチーズ焼きである。
今日は母が刈っている畑へと続く道の草刈りである。母曰く、4月の中旬まで母が肺の手術を受ける前には一回刈っていた道が下旬までの雨で一気に伸びたとのことだ。
大根の花というが、とてもきれいな花をつけたこの草が草刈り機に絡み付いてなかなか厄介である。
俺の実家は俺で4代目となる。初代、つまり俺のひい爺さんは角島でも結構な大地主の次男に生まれたと聞いている。そして、この地方なのかどうなのか、大体次男以降は他の家の養子にもらわれるか、寺に出家するのが慣例だったそうで、御多分に漏れずうちのひい爺さんも他の家に養子になったそうだ。
(写真解説:うちの畑へと続く道。全体が完全な放棄地になった段々畑というか、かつては田んぼが連なる立派な土地だったこの放棄地の主な農道を、昨年の夏に母がすべて切り拓いた。)
しかし、うちのひい爺さんは俺を実際に知っている人ならわかるかもしれないが、俺の数倍放蕩息子だったらしい。どのくらいめちゃくちゃだったかは今は知る由もないが、ただ一つ確実に言えるのは養子先から追い返されるほどだったということである。
(写真解説:上の写真の林を抜けると、今度は50メートルほどの直線の道が続く、ここも当然、家の土地ではなく単なる農道である。遠くに見えるのはうちの母ちゃんである。)
そうやって考えてみればある意味幸運だったのかもしれないが、通常はほとんど行われなかった「分家」ということをして、本家の土地を分けてもらってうちの実家は始まった。今でも本家と分家として角島では認知されていて、行くところに行くとそのように呼ばれる。
(写真解説:上の写真の道を刈った後。今日はここまでで家に帰ってサザエを拾いに帰ることにした。前を歩くのはうちの母ちゃん。道が拓けて初めてここが道であることに気付くほどだが、かあちゃんが道を拓いた当初は母ちゃんの横にそびえている茅の草が全体を覆っていたらしい。
母ちゃんは今日までの道を3日で拓いたらしい。70近い婆さんの体力で行ったとはとても思えない。俺も手伝ったとき、同じ背丈の草を10メートル刈るのに2時間かかり、めまいがするほど疲れたのだ。)
が、どちらかというと家の父親の息子としてだったり、兄貴の弟として呼ばれることの方が多い。これは今回のシリーズで少しずつわかってくると思う。
(写真解説:刈った後の林の前の道。)
ひい爺さんは前の投稿でも書いたが石工というか土方の棟梁のようなことをしていたらしく、相当に金回りがよかったそうだ。良かったそうだが、ほとんどを酒で飲んでしまったとも聞かされている。
(写真解説:草を刈った後の出入り口の道。草を刈ると本当にきれいに見える。)
小さいころから聞かされているのだが、角島にある井戸の3分の2はひい爺さんが掘ったものだということだ。8割がた、と聞いているが井戸は昔からあるだろうから少し話が盛られていると思うので、少し控えめに書いている。
(写真解説:この日も潮が引いた時を見計らってサザエを探しに出た。何か落ちてないか探している母ちゃん。)
話半分というのはそこだけで、金回りが良かったがほとんどを酒で飲んでしまったと言うのは実際の話のようである。ひい爺さんは俺の父が17歳の時に、リアルに酒の飲みすぎで死んだと聞かされている。何故酒で死んだとわかるかと言われると、当時の医者に酒をこれ以上飲むと死ぬるぞと脅されていたにも関わらず、死後、牛小屋の天井から一升瓶が山のように隠されているのが発見されたと聞かされているからである。
(写真解説:どっかのおばちゃん。向こうは俺のことがわかるらしいが、俺にはどこの誰かもわからない。説明を聞いてもまるっきり頭に入ってこない。)
それと、ひい爺さんがどこまでめちゃくちゃだったかは、実際に俺が継ぐことになっている土地からも見て取れる。俺が引き継ぐ土地はほとんどが僻地で、いろんなところに飛び地になっている上に出入り口を本家のものとして抑えられていたのである。理由は「酒のために売ってしまいそうだ」からだったそうである。出入り口が抑えられていると土地には値がつけられなくなるからそういうことをしたらしい。
まったく信用されていなかったのが良くわかる。そんな人が家の初代である。俺がこんな性格をしているのもある意味しょうがないのかもしれない。
(写真解説:あまり金もないし土地もすたれているが、漁権を持っているので季節に合わせていろいろなものがとれる。この日は俺に丸坊主を食らわせた叔父ではなく、大工をしている別の叔父が「カラス貝が食いたいから採って来てくれたら新しく作ったベランダの足台を引き換えに作ってやる」と言われてカラス貝を採った。後で文句を言われないように大きいものだけを選別して籠に刺さっている「ガゼ引き」で引っ付いている岩から剥がすようにして採るのである。結構な時間をかけて採ったので叔父貴も喜んでくれていた。)
うちの家はひい爺さんの次男、俺の大叔父が初めて建てた家だそうである。そして2軒目を建てて壊れて怒られたので大叔父は大工を辞め、放蕩の限りを尽くしたそうである。そちらの家系はやくざもいるとかいないとかと聞いている。まともなのは女性だけだそうだ。
(写真解説:家に帰ると猫が家に面した道路を見張っている。新しくできたベランダも物珍しいのだろうと思う。)
ひい爺さんがとんでもない人だったからか、うちの家系の大叔父側はほとんどがやくざ者で消息不明になっているらしい。今母親が相続を俺にまとめてくれようとしているらしいが、ほとんどが消息不明になっているので大変だそうである。ちなみに大叔父はうちの爺様が相続をまとめようと話をした時に「金をよこせ」と言ってご破算になったらしい。
(写真解説:うちのかあちゃんが大工の叔父貴に頼んで造ってもらったベランダである。かあちゃんこれが出来てとてもご満悦だ。ついでに屋根がぐねぐね歪んでいたのも下から支えて直してもらった。)
金にしても二束三文にもならない土地とぐれた大叔父がほとんど素人で造った家なのだが、自然に恵まれて食うものが都会では考えられないぐらいうまいのはありがたいことだと思う。この日のメニューは親父の同級生でとてもよくしてくれる漁師のおいちゃんがくれたヒラマサの刺身と海岸で採れた貝の煮物、家で採れた野菜と料理動画のために作ったレンコンのチーズ焼きである。
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